この年の十月二十日、離反した日向松尾城主・土持親成を討伐した大友宗麟は、日向北部にキリシタンの楽園(ムジカ)を建設しようと、家臣の反対を押し切って再度出陣した。
田原紹忍(親賢)を大将とする四万の兵が高城(宮崎県木城町)を囲み激しく攻撃したが、守将の山田有信はしぶとく粘る。
この事態に島津義久は薩摩から三万の大軍を率いて救援に駆けつけ、佐土原(宮崎県佐土原町)に本陣を敷いた。義久の弟で猛将として知られる義弘も、都於郡城(同西都市)に出陣、高城へ救援の兵を送る。ここに戦いのスケールが大きくなり、大友勢は十一月十一日の夜に軍議を開いた。
総大将の田原紹忍は慎重論を唱えるが、田北鎮周らは直ちに攻撃すべきと主張、軍議は決裂した。そもそも大友家の軍師として知られる角隈石宗も、この戦い自体宗麟の厄年に当たること、不吉である未申の方角への出陣であること、去年より彗星が現れ光の尾が西へ靡いていることなど数々の凶兆を挙げて反対したが、宗麟は耳を貸さず出陣した。
その後、この夜のうちに一部の武将らが、続いて翌未明には田北鎮周が出撃していることから、紹忍が結局大友軍をまとめきれなかったことが窺われる。さらに佐伯宗天・斎藤鎮実・吉弘鎮信らも次々と出撃、命令指揮系統がほとんど機能しない状態で島津軍との激突が起こる結果となった。
一方の島津義久は九日に義弘も交えて佐土原城で軍議を開き、十一日には高城と小丸川を挟んだ根白坂へ兵を進め、万全の体制で待ち受けていた。
もはや勝敗は既に決していた。この日両軍が衝突するや義弘の伏兵が起ち、出足の止まった大友勢の横合いから義久の本軍が襲いかかる。
劣勢となった大友勢が退却を始めると高城からも兵が出て追撃を開始、ここに大友勢は四分五裂となり佐伯宗天はじめ多くの将が戦死するなど惨憺たる大敗北を喫した。
務志賀(延岡市)に布陣していた宗麟は、敗報に接すると同伴していた宣教師たちを置き去りにし、這々の体で豊後へ逃げ帰ったと伝えられている。
従軍した軍師角隈石宗は田北鎮周らに進言を無視され、死を決して秘伝の書を焼き捨てて出陣、力戦ののち戦死したということだ。
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