六月六日から十三日までの一週間で、羽柴秀吉と黒田官兵衛らが明智光秀討伐へいわゆる「中国大返し」を行った。
六月四日に水攻めしていた備中高松城(岡山市)は、清水宗治が切腹して落城し、毛利氏と誓紙を交わして正式に和睦停戦が成立。
これにより秀吉は堤を切り崩して水を抜く。秀吉は一刻も早く上方へ戻りたいが、下手に動くと異変を察知される恐れがあるため、毛利氏の動きを注視しながら何食わぬ顔をして五日を過ごす。
これにより秀吉は堤を切り崩して水を抜く。秀吉は一刻も早く上方へ戻りたいが、下手に動くと異変を察知される恐れがあるため、毛利氏の動きを注視しながら何食わぬ顔をして五日を過ごす。
この間に秀吉は味方を募るべく書状を発し、六日の朝に毛利氏の動きに変化が見られないのを確かめると、急ぎ軍令を発して陣を引き払い、姫路を目指した。
悪天候のなか、秀吉は無我夢中で1日で姫路城に帰り着いたようにいわれていたが、最近の調査では3日かけていたようだ。
秀吉は姫路城の蔵に蓄えてあった米や金銀を全て配下の将士に分け与えると、兵の士気は大いに高まった。
つまりこの城にはもう戻ってこないぞという決意を、諸士に伝えたわけだ。
秀吉は浅野長政(当時長吉)を留守に置くと、全軍一丸となって九日に姫路を出陣した。
秀吉は姫路城の蔵に蓄えてあった米や金銀を全て配下の将士に分け与えると、兵の士気は大いに高まった。
つまりこの城にはもう戻ってこないぞという決意を、諸士に伝えたわけだ。
秀吉は浅野長政(当時長吉)を留守に置くと、全軍一丸となって九日に姫路を出陣した。
夜遅くになって兵庫に着くと、一隊を淡路島に派遣して明智方の洲本城(兵庫県洲本市)主・菅平右衛門尉達長を攻撃させ、自身は十一日の朝に尼崎へ到着した。
秀吉は大坂城の織田信孝・丹羽長秀や有岡城(伊丹市)の池田恒興らに参陣を求め、十二日に摂津富田まで陣を進めて軍議を開き諸将の部署を定めると、午後には早くも先鋒隊が天王山を巡って明智勢と小競り合いを起こします。
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