西方浄土筑紫嶋
古代で西方の嶋を筑紫(竹斯)嶋となずけた。
2013年6月29日土曜日
山川兄弟姉妹
放送大学で、長男の大蔵、次男の健次郎、妹(さき・咲子)後に捨松の紹介があった。
大蔵(オオクラ)は家督を継ぎ、若くして海外留学もして戊辰戦争を戦った。明治以後は浩と名乗ったという。
敗戦後の明治直後は生活に窮して、妹の捨松を函館の里子に出したという。
これが黒田清隆の派遣人材に選ばれるチャンスにつながった。
健次郎も明治政府の留学生に選ばれたので、3人とも明治時代では花形人生を迎えた。
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