2013年8月6日火曜日

黒田藩時代の古賀市郷土史


関ヶ原戦後に52万石で筑紫入りした黒田如水と長政親子。
江戸時代の古賀地区図(①~④は本文の中)
如水は古賀市の郷土史に直接登場することはないが、長政は千鳥ヶ池①で大雨に合い、流の泉林寺に雨宿りをしたという逸話がある。

薦野氏と米多比氏: 古賀市の黒田以前の戦国時代の代表的豪族は薦野氏と米多比氏であり、ここでは両者の比較をまとめてみる。
1)古賀町誌では薦野氏が10頁分、米多比氏が5頁分の記載で、最近発行の「古賀市うるわし」でも、薦野氏がメインで、米多比氏は2割程度の行数。
2)こが広報誌では米多比氏を昭和50年頃掲載、薦野氏は平成25年にやっと掲載。
3)現在の行政区地名として、薦野区、米多比区が隣接しており、その東側丘陵地(300m弱)に,薦野城跡と米多比城跡が現存している。
4)古文書としての数は、米多比氏が150、薦野氏が80。
5)立花氏が柳川城に移封したときの禄高は、薦野氏が4000石、米多比氏が3500石。 
6)古賀時代の明確な石高数値は不明だが、大内勢と大友勢が拮抗していた時代は、米多比氏の活躍が上位だったようで、大内・宗像勢が撤退し、その後柳川に移動する前後からは、薦野勢の活躍が上位になったようだ。
7)同時代の薦野増時米多比鎮久を比較すれば、増時は戦場の活躍のほかに、先見性や交渉力などが優れていたようだ。薦野増時は立花宗成の命により、黒田経由で家康との交渉にでかけてたりいる。
8)薦野増時の子孫の立花実山が、黒田藩史では有名だ。 


団氏:
古賀に旦の原②という地名があり、ダンノハルという。
旦の字は日の出をあらわし、タンと読むのが普通である。
しかし旦那はダンナだから濁音もある。旦と団は意味が違うが、音は同じだ。
この地の出身豪族に団氏がいて、かってこの地の満本城の城主であった。
薦野氏との戦いに敗れて、その後は薦野氏にしたがって立花や黒田の家臣となった。
11代目の団尚静は幕末のころ黒田の勘定奉行までなったが、維新のころは江戸勤務であったため、黒田偽札事件には関係せずにすみ、同僚が多く罪にとわれるなかで、福岡藩から福岡県の官僚として生き残った。
筑前竹槍一揆が起こると、その事件処理に功績をあげて、県権大参事になった。
その子の団琢磨は藩の海外派遣員としてアメリカに渡り、鉱山学などを学び帰国した。東大の教壇にたったのち工務省の役人となり大牟田の三池鉱山の開発を担当した。鉱山の民営化で三井物産が入札したとき三井物産に天下りし、最後は三井財閥のトップとなるが、テロにあい生涯を閉じる。
その子の団伊能も実業家として活躍し、その長男の団伊久磨は作曲家として有名人となった。
伊久磨は団氏のルーツ探しに、古賀まで足を運んできたことがある。どんな感想をもって帰っただろうか。
今は九州高速道路の古賀パーキンエリアが出来て、九州では人気のある場所になっている。

飯尾理入
飯尾理入は国東半島の大友の城の一つの冨来城代として黒田と戦い、降伏して黒田の家臣となって、古賀の小山田地区③に居住した。その墓が古賀市薬王寺にある。この飯尾理入は豊後では垣見理右衛門と名乗っていた。「飯尾」の姓は祖先が「尾張の飯尾氏の養子になった」時代があったかららしい。
菅六之助正利
黒田25騎のなかで、一人だけ糟屋との関係記録のある人物がいる。「菅(カン)六之助正利」である。
筑前入して3000石となり、伊都郡や糟屋郡の郡奉行となる。
糟屋郡では、古賀の「新原村」の新田開発をしたという記録がある。
播磨国揖保郡のうまれで、如水のもとで若い頃から働き、初陣は17歳の時の賎ヶ岳の戦で、二人を倒して如水からほめられた。
岸和田の陣で根来雑賀衆と戦い戦功を上げた。
九州役でも築井城攻めで敗退のとき、長政を守って活躍した。
中津入りしたときは200石であった。
朝鮮の役では虎退治の武勇伝が有名である。
関ヶ原の役では小早川秀秋との連絡役をつとめ、本戦では鉄砲隊を率いて、石田側の重臣島左近を打ち負傷させた。
晩年は和泉守を名乗り、茶の湯を楽しみ、黒田長政の没後は出家したという。
古賀の新原には何も古文書や遺跡らしいものが残っていないのは残念である。
もと民主党の菅首相はこの一族の別れの末裔ということらしい。

斉藤甚右衛門 
古賀の筵内を領有していた斉藤甚右衛門は、黒田長政の家臣として筑前国いりをした。
斉藤家はもとは武田源氏の家臣だったが、信玄が死亡したあと武田家をはなれて保科家につかえ、さらに黒田家に移ったという。
甚右衛門は関ヶ原の戦のおり、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を後藤又兵衛と共同で苦労して救い出したのが大きな功績とされている。
関ヶ原以降は長政夫人付きの家老職をつとめたようだ。
筵内④の医王寺に一族の墓があり、幕末まで黒田に仕えていたようだ。
しかし薦野氏や米多比氏のように戦国時代から地元にいた武士ではないので、知名度が低いのはしかたがないだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿