内容は充実していたが、小野和泉のことには触れられていなかった。
薦野増時 |
薦野氏は、中世からの地元豪族であり、小野和泉は大友家の家臣で、立花道雪と共に立花城に赴任してきた。
由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた。「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で22度の大戦、多数の小戦に参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計68枚の感状を受けた。
筑後国柳川城の城主となった立花宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。
小野和泉は立花城時代には、宗像軍との小金原の戦で活躍したり、島津軍側の星野吉実、吉兼兄弟の追撃戦などで活躍した武将であった。
立花宗茂が失脚して放浪中は、小野和泉守が資金援助をつづけたという。
薦野増時は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人を越え、田舎豪族には稀なる人材であると同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。
しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、戦国の世の習いである。
薦野増時も、能力のある人物であることは確かなのに、武儀は二番のように、特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたようだ。
小野和泉派と薦野増時派の対立は、小野和泉派は相手を「比丘尼組」と呼び、薦野派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、それぞれに腹を立てさせることもあったという。
そのせいか古賀の郷土史家たちは、小野和泉のことを、あまり評価せずに、取り上げることが少ない。
小野和泉の子孫で有名なのがオノヨウコである。
彼女はジョンレノンをつれて柳川にきたという。お花亭の付近に小野邸跡があるからだ。そのためか、ゲームの世界では小野和泉が有名になっている。
古賀市にもかって小野村が存在した。
明治22年に席内村・青柳村・小野村の3村時代になり、昭和14年に席内村が古賀町となり、昭和30年に3者が合併して大型の古賀町となり、平成9年に古賀市となった。
薦野や筵内や米多比の地名は残っているが、小野の地名は消えて、小野公園や小野小学校の名前だけが残っている。
明治22年以前にも小野という地名はなかった。小野村という名前はどこからつけられたか謎だ。
小山田の小と、薦野の野をとったという説があるが、小野村の村誌には何も記載されていない。
立花道雪の家臣の小野和泉(鎮幸)がこのあたりに居住していたから小野村といわれていたという説もあるが、はっきりしない。
古賀の小野公園や小野小学校も、オノヨウコがきてくれれば、話題になるのだが、根拠がうすいので、招待できそうもない。
薦野増時のほうは、薦野城跡もあり墓もあって、薦野地区の郷土研究会で毎年記念行事や資料研究が行われている。
二人は現在でも、対照的な人物として取り扱われている。
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