西方浄土筑紫嶋
古代で西方の嶋を筑紫(竹斯)嶋となずけた。
2013年10月25日金曜日
中津城での謀殺の理由
「築上町でのシンポジュウムで、小和田先生の話。」
黒田官兵衛は地元豪族にたいして、黒田に従えば現在の領土は安堵すると宣言していた。
宇都宮氏もそのつもりで安心していたのに、秀吉から四国への移封命令がでた。
しかもその正式書類も届かない状態が続いた。 そこで遂に反抗の兵をあげたものと考えられる。
官兵衛も兵力戦では解決が長引き、佐々のようになるのをあそれて、謀殺の手をえらび、 自分も隠居して、長政に家督を譲ったと思われる。
黒田は福岡にうつり、細川が中津城に入ったが、さらに小倉に移動した後、奥平が中津城に入り、この地区を治めた。
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