2026年5月17日日曜日

百寿の祝賀会

 

大正三年生まれの古賀作一さんは、安倍晋三総理から表彰された。

大正十五年生まれの私は、九州大学の後輩で同じ寅年うまれで、東サロンで20年間も指導をいただいた。

私もやっと今年百寿となり、九月には高市総理から表彰される予定である。
東サロンのような集まりはコロナで消滅したが、SJR千早の友人の集まりで、何らかの祝賀会を行いたいと思っている。SJRにはほかに一人百寿の人がおられる。
百寿人口の増加で、「寿」の銀杯は少し小さくなっているいるだろう。昔は100g以上だったらしいが、最近は95gになっているようだ。


2026年5月4日月曜日

大正15年~昭和2年の政治

私は大正15年 5月に生まれ、今月で満100歳をむかえる。

大正15年の政治状況を一言でまとめると、AIは次の回答をしてきた。

  • 政党内閣と議会政治が形式的には最も完成していた
  • 同時に無産政党の誕生などで政治が大衆化し、右も左も多党化が進んだ
  • 皇位継承と昭和への改元を控え、体制の先行きには不安も滲み出ていた
    という「大正デモクラシーの最後の一年」でした。
第1次若槻内閣は、内閣総理大臣臨時代理内務大臣若槻禮次郎が第25代内閣総理大臣に任命され、1926年大正15年)1月30日から1927年昭和2年)4月20日まで続いた

私の名前は、立憲政友会総裁田中義一の名前をとって、義一とナズケられた。ただし読みは、ギイチではなく、ヨシカズで、政治には無関係な人生であった。

田中義一が内閣総理大臣就任

1927年4月19日、総理決定の日、羽織袴姿の田中

1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった。

若槻内閣は同年4月17日に総辞職を表明し、代わって立憲政友会総裁の田中が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。

内閣の主な顔ぶれ

蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。

この時代から、吉田茂や鳩山一郎の名前が出てくるのは、驚きであった。

神仏習合

 日本の宗教観は多神教の部に属する。

最初は神道がおこる。地球の地震多発地で、巨岩や高瀧などが発生し、これらは神の姿とあがめられた。


しかしその後も大地震が発生し、多くの被害や死者が発生したので、大陸から伝わった仏教の仏様に、救いを求めた。


そして神と仏は融合していき、無常観の心で、生きてきた。

2026年4月26日日曜日

羽田沖JAL墜落事件

 JALが羽田沖海岸に墜落事故を起こし、多くの犠牲者がでた。

機長がノイローゼになっていたのが、原因であった。

西部電機の田嶋部長が、乗客であったが、亡くなった事故でもある。

その時の副操縦士は、江崎という人物で、機長のおかしな操縦にかなり反抗したそうだが、事故となってしまった。

彼の母は江崎姓だが、ドイツ人で留学中の江崎教授と結婚し、日本人となった人物人物で、福岡女子大のドイツ語教師をしていた。

我が家の二三子夫人もその教えをうけていたという。

その子供さんは、JALのパイロットで、羽田沖墜落事故の時の副操縦士であった。

2026年4月23日木曜日

織田家;豊臣家:自害の5月

 

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 

    報いを待てや 羽柴筑前」辞世の句・最後の言葉

織田信孝   1583年5月 自害

  • 「野間」は、平治の昔に主人である源義朝が裏切り者に討たれた場所であり、信孝はここに幽閉され自害しました。この地名を用いることで、裏切り者への報いを待つという強い意志が込められている。
  • 「羽柴筑前」は豊臣秀吉を指し、信孝の敵に対する感情や、戦国時代の複雑な権力争いの中での無念さを表現している。

信孝の心情

信孝は、父・信長の死後、織田家の後継者として名乗りを上げたが、秀吉の策略に翻弄され、最終的に自害を選びました。辞世の句には、恨みや悔しさを抱えつつも、自らの生き方に誇りを持ち続ける強い意志が感じられます 。この句は、戦国時代の荒波の中で、忠義と誇りを貫いた信孝の生き様を象徴しています。


 秀吉の息子 秀頼 : 1615年 5月 自害

5月に揃えたのは、家康だという磯田さん。


2026年4月15日水曜日

要介護の知人サポート

 私たち夫婦は介護保険の認定で、要支援1である。

SJR千早に入居して数ケ月たった頃、私より17歳若いS君が、数年前ここに入居していることを知った。驚いたには、彼はアルツハイマー病やパーキンソウ病をわずらい、要介護3の状態であった。だから毎日の生活も、介護師がついての行動であった。

外観もすっかり変わり、本人と気ずかずにいたが、支配人や看護主任から紹介され、話相手となってくれと依頼された。

私の最後の職場九産大で、10年間おなじ学科で過ごした仲間であり、当時は中堅のすぐれた教授であったS君が、なぜ病になったのかを調べたところ、彼は一生独身であり、退職後交際相手がなく、孤独な生活を続けていたことがわかった。

その後月2,3回、家内も同伴したりして、世間話をしたり、彼の病状をきいて、現在の医学知識を学んだりている。

新しいiPS細胞での治療法などの情報を知らせたりしているが、彼も興味を示しはじめた。
どこまで効果のある方法かわからないが、少しは役立っているだろう。

アルツハイマー型認知症の薬のはじまり

 エーザイの研究員、杉本八郎。彼が挑んでいたのは、当時「不治の病」とされ、有効な治療法がなかったアルツハイマー型認知症の薬でした。しかし、開発は困難を極めました。来る日も来る日も実験を繰り返し、4000種類もの化合物を試しましたが、結果はすべて失敗。成果が出ないプロジェクトに対し、会社の上層部は非情な決断を下します。

「これ以上、無駄な金と時間を使うな」。
それは事実上の、開発中止命令でした。
しかし、杉本は首を縦に振りませんでした。「この薬の完成を待っている患者さんが、家族が、世界中にいるんだ」。
彼は会社の方針に背き、表向きは別の仕事をしながら、上司のいない隙や業務時間外を使って実験を続ける「ヤミ研究」に手を染めます。クビになるリスクを背負ってでも、彼は実験室に立ち続けました。
その狂気にも似た執念が、ついに4000回を超える失敗の果てに、奇跡の物質を引き当てます。
こうして生まれた「アリセプト」は、世界初となるアルツハイマー型認知症の進行抑制薬として承認されました。組織の論理よりも、目の前の患者を救いたいという一人の研究者の「反骨心」が、医学の歴史を塗り替え、世界中の家族に光を灯したのです。

日野原の成人病のはじまり

 1970年、当時58歳だった日野原重明は、学会へ向かう途中に「よど号ハイジャック事件」に遭遇します。北朝鮮を目指す犯人グループに拘束され、いつ殺されてもおかしくない極限状態を数日間過ごす中で、彼は死の恐怖と正面から向き合うことになりました。無事に解放されたとき、彼の心に宿ったのは「拾った命を、単なるキャリアの継続ではなく、日本の医療を根本から変えるために捧げる」という強烈な使命感でした。

この揺るぎない決意は、1970年代から当時の医療界の常識を次々と塗り替えていく力となります。死を語ることがタブー視されていた時代に、末期がん患者などの心のケアを重視する「ホスピス」の導入に尽力し、1977年からは、それまで「成人病」と呼ばれていた病気が日々の習慣に起因することに着目して「生活習慣病」という言葉を提唱し始めました。この新しい考え方は1996年に厚生省(当時)が正式採用するに至り、日本の医療を「治療」から「予防」へと劇的にシフトさせるきっかけとなりました。さらに1992年には、聖路加国際病院の新築に際して「災害時に廊下でも酸素吸入ができる」という異例の設計を主導しましたが、これが1995年の地下鉄サリン事件において、一度に数千人の負傷者を受け入れ、命を繋ぎ止める救命の要となったのです。
100歳を過ぎても現役の医師として診察や講演を続け、2017年に105歳で生涯を閉じるまで、彼は「老い」を単なる衰えではなく、新しい生き方の創造であると身をもって示し続けました。死に直面した恐怖を「生への情熱」へと転換した日野原重明の生き様は、今もなお多くの人々に深い勇気と希望を与え続けています。

2026年4月14日火曜日

緑茶の研究のはじまり

 1920年代、まだ女性が研究者になること自体が「非常識」とされていた時代、辻村みちよは北海道帝国大学で無給の副手としてそのキャリアをスタートさせました。

当時のアカデミアには、女性が専門的な教育を受けたり学位を取得したりすることに対して非常に高い壁があり、彼女は研究費もままならない困窮状態の中で、ひたすら実験器具に向かい続ける日々を送ります。さらに1923年、ようやく積み上げてきた研究データが関東大震災によって研究室ごと灰になるという、絶望的な不運にも見舞われました。

しかし、すべてを失っても彼女の情熱が消えることはありませんでした。理化学研究所に移った彼女は、1924年に緑茶の中にビタミンCが豊富に含まれていることを突き止め、世界を驚かせます。さらに1929年には、緑茶の渋みの主成分である「カテキン」を、翌1930年には「タンニン」を、世界で初めて結晶として分離することに成功したのです。
これらの圧倒的な業績が、それまで頑なだった教育界の扉をこじ開けることになります。
1932年、彼女はついに日本初の女性農学博士という栄誉を手にしました。
今や世界中で「ヘルシーな飲み物」として愛されている緑茶ですが、その健康効果の裏側には、どれほど冷遇されても、どれほど不運に見舞われても、たった一人で顕微鏡を覗き続けた彼女の強い信念がありました。

2026年4月13日月曜日

インターネットのはじまり

 今私たちが当たり前のように使っている日本のインターネットは、実は「犯罪者」になるリスクを背負った一人の男が、泥まみれになって床下を這いずり回るところから始まりました。

1980年代、日本の通信環境は今とは全く異なり、電電公社(現NTT)がすべての回線を独占していました。当時は「組織をまたいでコンピュータ同士を電話線で繋ぐこと」は法律で厳しく禁じられており、大学間でさえ勝手にデータをやり取りすることは許されない時代だったのです。
しかし、「情報を繋ぐことでしか、日本の未来は開けない」と確信していた村井純さんは、国からの「違法行為だ」という警告を背に、孤独な戦いを開始しました。
研究資金はほとんどなく、味方も少ない状況。彼は自ら作業着に身を包み、大学の床下や狭い隙間に潜り込みました。泥や埃にまみれながら、自分の手で一本一本ケーブルを繋いでいくという、まるでゲリラ戦のような作業を続けたのです。
いつ警察が踏み込んでくるか、いつ逮捕されるかという極限のプレッシャーの中、夜は机の下に寝袋を敷いて眠る日々。そんな執念によって、1984年、ついに日本初のネットワーク「JUNET(ジュネット)」が誕生しました。
このネットワークは、当時の常識を覆すほどの圧倒的な便利さを持っていました。
そのため、参加を希望する大学や研究機関が爆発的に増加。あまりの広がりを前に、ついに国も「法律が時代に追いついていない」ことを認めざるを得なくなり、通信の自由化へと大きく舵を切ることになったのです。
自ら泥をかぶって物理的にケーブルを繋ぎ、日本のデジタル社会を切り拓いた村井さんは、後に「日本のインターネットの父」と呼ばれるようになります。
私たちが今、指先一つで世界と繋がれるのは、かつて逮捕の影に怯えながらも「未来」を繋ごうとした、彼の手作業と執念があったからなのです。 

2026年4月4日土曜日

異母兄妹の結婚

 現代医学では遺伝学的な研究から、異母兄妹の結婚は禁止されている。

しかし古代では、奈良時代まで異母兄妹の結婚は多数行われてきた。

日本書紀によると、聖徳太子の父母は異母兄妹であり、推古天皇夫婦も異母兄妹である。

磐隈皇女は伊勢神宮の斎宮(未婚の女姓で最高責任者)として仕えていたが、異母兄の茨城皇子と結婚して、斎宮を解任されたのは、有名な話である。



海外では現在でも、異母兄妹の結婚を認めている国があるようだ。

イスラム教の国では、一夫四婦が制度として認められているから、異母兄妹が多数存在している筈で、その結婚も多いであろう。

遺伝学的に、どのような欠陥があるのか、詳しく知りたいものだ。


2026年3月28日土曜日

九大工学部の誘致と跡地の開発計画

 明治40年に九州帝大工科大学の設置計画が出され、福岡市は東に京大福岡医科大があるので、西新町を適地としていた。しかし文部省は医科大を含め総合大学化の計画で、箱崎に決定した。土地の買収費は土地収用法により、7万円弱であった。それでも福岡市の予算の

13%をしめていた。

当時の地主の一人であった我が家の祖先は、安い土地代に泣かされたが、九大創立50周年の記念式までは、式典に招待されていた。しかし一族から九大に入学したのは、昭和20年の私が最初であった。

福岡空港に近いので、騒音問題に悩まされて九大が箱崎から伊都に移転し初めたのは、
2005年からである。

しかし箱崎の跡地は、その後の活用計画がなかなか決まらずに、25年も経過していた。




2026年3月28日の朝日新聞に、ようやく具体的な開発計画の概要が紹介された。

福岡市の年度予算1兆円あまりの30%以上をしめる金額が買取予算になっているようだ。

2026年3月23日月曜日

イランの歴史と社会

 

イランには古代の栄光があり、何回も大国に敗れながら結束を高めた結束がある。

わずか200~300年の歴史しかないアメリカに対しても、この結束で戦っているとする

東大名誉教授羽田正名誉教授の説である。

これが現代の民主主義的社会への抵抗になっているのであろう。

2026年3月22日日曜日

モンゴルと日本

モンゴル出身の霧島力士が3回めの優勝をした日に、こんなニュースを知った。



ある日、青森県に暮らす高村さん一家のもとに、一本の電話が掛かってきた。受話器から聞こえてきたのは、予想だにしない言葉だった。
「外務省からです。モンゴルの大統領が、あなた方を探しています」
話は28年前に遡る。高村さん一家は、ホームステイで一人のモンゴル人青年を受け入れた。約1週間という短い期間だったが、共に食卓を囲み、笑い合い、一家は彼と深い絆で結ばれた。特に、幼かった娘さんはすっかり彼に懐き、いつもそばを離れなかったという。
別れの時、その心優しい青年は、高村さん一家、とりわけ小さな娘さんと固い約束を交わした。
「いつか、僕の国モンゴルに招待します」
それから四半世紀以上の時が流れた。日々の暮らしの中で、その約束は遠い昔の温かい思い出となっていた。そこへ掛かってきた、あまりにもスケールの大きな一本の電話。なんと、あの時の好青年「フルレー」(当時の愛称)が、モンゴルの大統領になっていたのだ。「まさか、あの時の青年が大統領になっているとは…」。高村さん一家は、驚きを隠せなかった。
しかし、約束は言葉だけでは終わらなかった。数年後、大統領となったフルレーこと、ウフナーギーン・フレルスフ氏は、高村さん一家を正式にモンゴルへ招待。28年ぶりに再会を果たした彼は、涙を浮かべながら、かつて本当の家族のように接してくれた一家を温かく抱きしめた。
しかも、そのもてなしは想像を絶するものだった。国賓級の待遇で迎えられ、国民的な祭典では各国の来賓が並ぶ席に通された。一国のリーダーとなっても、彼は日本の一家と交わした約束を、そして受けた恩を決して忘れてはいなかったのだ。
モンゴルの広大な大地の下で、高村さん一家は再び彼と約束を交わした。
「今度はまた日本に遊びに来てください」
国や立場を超え、一人の人間として交わした約束を大切にし続けた大統領と、その優しさを受け止めた日本の家族。それは、人と人との絆がいかに尊いものであるかを物語る、奇跡のような実話である。

田中耕一氏



 ノーベル賞受賞者が語る:私はとても賞を受ける資格などない

ノーベル賞後の17年の沈黙:己を証明する道のり
ノーベル賞受賞者として、私は田中耕一氏(2002年化学賞)の特異な価値を痛感している——彼は「エリート科学」の認知枠組みそのものを覆した。
グリセリンをコバルト試薬に誤って混入したという「間違った実験」が、科学的発見の本質を露わにした。実に、68%の画期的なブレークスルーは、非常識な道筋から生まれている(『ネイチャー』2023年統計)。
しかし、より衝撃的なのは、彼の受賞後の研究軌跡である。
データから見る実像
• 学術的沈黙期:受賞後16年間、論文はわずか3本。しかし、血液検査の感度を10⁻¹⁸g/mLまで向上させた(従来のELISA法の10⁶倍)。
• 臨床的ブレークスルー:2024年『ネイチャー』論文にて、アルツハイマー病の超早期診断を実現(症状発現の30年前にβアミロイドオリゴマーを検出)。治療介入の可能な時期を、症状期から潜伏期へと前倒しした。
産業化への転換:特許技術を応用した検査キットの単価を2ドルまで低減(従来のPET検査は5000ドル)。世界の潜在的患者3700万人への普及に道を開いた。
型破りな科学者からの啓示
1. 学際的バックグラウンドの強み:電気工学の出身であるがゆえに、化学者の思考の盲点を突破。パルスレーザー脱離質量分析計を設計し、デバイスのS/N比(信号対雑音比)を当時最高水準の147:1にまで高めた。
2. 職人魂の価値:出世や昇進を断り、現場にこだわり続けた。20年間で527種類もの試薬関連の「失敗」データベースを蓄積。これが、常識外れの発見の礎となった。
3. 時間というレバレッジ効果:16年もの歳月をかけて一つの課題に没頭するという「愚直な努力」が、検査処理能力を400倍(1時間あたり4検体→1600検体)に向上させた。
ノーベル賞のパラドックスを解く
田中耕一現象は、科学界の評価システムの矛盾を如実に映し出す。
• 受賞前:学術界から「査読付き論文が会議録1編のみ」と無視された。
• 受賞時:「専門教育を受けていない」との理由で疑念の目を向けられた。
• 受賞後:16年の歳月をかけて、「偶然の発見」と「体系的なブレークスルー」との溝を埋め続けた。
これは、科学的信用(クレディビリティ)の蓄積を表す、以下のような式を想起させる。
Credibility(科学的信用) = (Discovery(発見)× 10) + (Rigorous Proof(厳密な実証)× 100) / Years(年数)