黒田官兵衛ブームで、播磨と筑紫の関係が歴史的に深いことが知られてきた。戦国時代の郷土史では立花城が、中国の大内氏や毛利氏に占拠された時代があることは知っていた。
古代の郷土史(卑弥呼の時代)は筑紫と大和の関係が主にかたられていたが、中間に吉備の国があり、卑弥呼は吉備の出身ではないかという説が、先日(4月15日)の朝日新聞にとりあげられた。
吉備の倉敷市にある楯築墳丘墓は2世紀後半卑弥呼の時代のもので、これを根拠にに国立民族歴史博物館の春成先生は{卑弥呼の故郷は吉備だったのでは?}と考えているそうだ。
楯築墳丘墓は秀吉が水攻めをした高松城築堤跡の西南2Kmにある。
また岡山大学の松木先生は、楯築墳丘墓が{倭国王師升の墓では?}と考えているそうだ。時代や出土品などから大和の箸墓古墳や纏向古墳との類似性も多いらしい。
卑弥呼が吉備のうまれで、筑紫の邪馬台国にやってきたのなら、大内や黒田の大先輩ということになる。
二人の先生は、卑弥呼が吉備から大和に進出したことを想定している。
邪馬台国大和説では投馬国を吉備とする説が多いようだ。
手元の資料を読みかえしてみたら、岡山大学の松木先生は平成18年12月に福岡市埋蔵文化財センターで、楯築墳丘墓を根拠に邪馬台国大和説の講演をされいた。
当時まだ助教授だったので、質問攻め、反論攻めにあって、また勉強して出直しますと退席されたのを思い出した。
九州で大和説を主張できるのは大先生になってからだらだが、1961年生まれということだったので、もうそろそろ再来してもらってもよさそうだ。
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