「キリシタン書簡集から見るシメオン如水の人間像」 (11月29日福岡市市民フォーラム)
1)キリスト教との出会い
*如水が洗礼をうけたのは天正13年 1585 40歳の頃
*高山右近・蒲生氏郷・小西行長らが導いた。
2)九州攻めとキリシタン禁令
*豊後から避難する司祭たちのため、毛利領内に司祭館を建設するように、豊臣政権の重臣として毛利家と交渉し、イエズス会のため働く。
*小早川秀包・大友義統らをキリスト教に勧誘。
*秀吉は高山右近・蒲生氏郷・小西行長らには棄教を命じたが、如水には多大な功績に遠慮して、命じなかった。
*如水は長崎・浦上・平戸などの領主にイエズス会司祭を推奨し、京都のキリシタンを庇護する活動をした。
*イエズス会巡察師が来訪(1591)したとき、秀吉に会見をうながすが、拒否された。
3)如水の失脚から関ヶ原
*文禄の役で全羅道・普州城攻撃を延期する許可をうるため帰国したため、秀吉の勘気にふれ失脚。
3年後の和議破局後に許された。秀吉との関係は薄れていった。
*関ヶ原の戦が起こると、長政とともに東軍につき、十字架の旗印を揚げて戦った。
*キリシタン大名の有馬晴信・大村喜前らを東軍に勧誘した。
*もともとキリシタンの大友義統を捕虜とし、信仰の道につれもどした。
*キリシタン大名の小早川秀包の妻を弟の直之に救出させた。
*加藤清正に抑留された小西領の司祭たちの開放に尽力した。
4)筑前での隠居生活と昇天
*長政はキリスト教と距離をおいたが、如水は公然と庇護した。
*59歳で死去するまでキリシタンとしての信仰を保つた。
*信仰上側室をもたなかったが、妻は浄土宗の熱心な信者だった。
九州を平定してキリシタン王国をつくる夢を持っていたのではないかという話もでた。
講演会の掲示板 |
明日12月7日の大河ドラマにどれだけキリシタン色がでるか?楽しみだ。
黒田如水 |
街歩き教室「黒田官兵衛・長政のキリスト教と家康」(清田清)
2時間歩き、2時間喋った。皆さまお疲れ様でした。
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