2015年8月3日月曜日

日本武道館の建設

今国立競技場の建築設計が、費用軽減問題でもめている。

最初の東京オリンピックの時は、こんな事件はなかったし、武道館追加建設のような、もっと積極的な話が残っている。
東京武道館
安川第五郎は晩年、初期の東京オリンピック組織委員会が混乱したため、途中からその委員長に就任した。
安川第五郎
当初の計画案では、はじめてオリンピック競技となった柔道競技は、水泳競技終了後に、代々木の水泳場のプールの上に、板をはってマットを敷き、ここで柔道競技をを行う予定であった。

柔道2段で玄洋社理事・明道館再建委員長だった第五郎は、日本の国技を風呂桶の蓋の上でやらせるのは何事かと考え、当時衆議院委員だった正力松太郎らと協議して、新しい武道館の建設方針に切り替えた。
正力松太郎
 1961(S36)年6月、武道を愛好する国会議員が武道会館建設議員連盟を設立、会長に正力松太郎(衆院議員)を据え、建設賛成の署名を集めることから運動がスタートした(国会議員525名の署名獲得)。 その後、文部大臣が「財団法人日本武道館」の設立を許可〔1962(S37)年1月31日〕 し、建設の準備が始まった。


場所は、東京都千代田区北の丸公園2番3号 で、皇居旧北の丸跡地の北の丸公園内にきまる。

設計者は山田 守(やまだ まもる)氏で、大屋根の流動美は富士山をイメージして作られている。

工事は1963(S38)年10月3日竹中工務店によって建築工事がスタートした。翌年9月15日に完成(総人数182,200人投入)し、10月3日に開館した。
工事風景
工事費は、当時のお金で約20億円であった。
資金は、国庫補助金、公営競技関係補助金だけでなく、

財界、地方公共団体及び国民一般 からの寄付金で建設された。

1964(S39)年、10月20日から4日間にわたって柔道競技が行われ、その結果、軽量級は中谷雄英選手、中量級は岡野功選手、重量級は猪熊功選手が、また無差別級はオランダのアントン・ヘーシンク選手が優勝した。

協議風景
この建物は、オリンピック終了後も、青少年の心身錬磨の大道場として各種武道大会に使用される一方、公益的な使命をもつ国家的な諸行事にも広く多角的に活用されている。

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