2016年5月24日火曜日

小田原:後北条5代


戦国時代小田原城を拠点とし、5代にわたってその栄華を極めた戦国大名・「後北条氏」の歴史。後北条氏の5代は(早雲氏綱氏康氏政氏直)。
大河ドラマ「真田丸」でも登場するので、人気が高まっている。
初代早雲については、先だってまとめたので、あと4代を要約する。
https://erekiwestjapannavi.blogspot.com/2016/05/blog-post_13.html

早雲の足跡
初代の早雲が小田原まで進出した足跡は上の図の通り。

1518(泳正15) 早雲は家督を氏綱に譲る。当時の周辺諸国は、上杉・武田・今川などに囲まれていた。

北条氏を称したのは、氏綱が名字を伊勢から北条に改めてからのことだ。
氏綱の代に関東管領上杉氏小弓公方、分裂した真里谷氏里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦にて小弓公方を滅ぼした。

この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。
氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠とし、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した。
氏康期の天文22年(1553年)には甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立し、
信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。

永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅した。

天文15年(1546年)の河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。後に北関東方面では外圧となった関東管領上杉氏長尾氏これらと同盟時に武田氏今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘に於いては敗退することもあったが、着実に支配を広めた。


氏政が実権を掌握した元亀2年(1571年)には甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、天正6年(1578年)の越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。
氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している。

後北条氏は織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの恩賞は無く、織田家重臣の滝川一益の関東入りとなった。これが北条家が織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。しかし、中途半端な状況で本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。

滝川一益は広大な領国の経営に頭を悩まされているところであった。相次いで発生する一揆の鎮圧や、従前の仮想敵国である上杉領に対する攻勢の準備などで忙殺されていた。
こうした滝川軍に対して北条氏は同盟の一方的な破棄を通告、氏直を総大将とする4万6000の軍勢が織田領へ雪崩込み、滝川軍を敗走させた。
信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、これを巡って、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が三つ巴の戦いを繰り広げることになる。

織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模武蔵下総上総北半上野に及び、また下野や駿河・甲斐常陸の一部も領有しつつ、安房里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる。




その後小牧・長久手の戦い四国征伐九州征伐で電撃的に西日本を統一した豊臣氏に対して、北条家も他の大大名と同様に大名家の家格を維持する事、領民に手を出さない事(民政不介入)を条件に恭順の意思を示す。

しかし、天正17年(1589年)に上野国名胡桃において、兼ねてより真田家との間にあった領土争いが暴発、北条家家臣の猪俣邦憲が独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領してしまった。

この事件は大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原征伐を招いてしまう。小田原城はかって上杉謙信も攻め倦んだ堅固な総構えをもつ城で、これを過信した氏政・氏直だが、豊臣の大軍に包囲されて降伏する。
小田原城



これによって戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。

0 件のコメント:

コメントを投稿