2017年7月18日火曜日

船原古墳の馬具と周辺の牧場

古賀市の船原古墳のそばから出土した装飾馬具一式が国指定の史跡になった。
周辺には、馬の放牧を行った牧場や、訓練を行った馬場があったはずだ。
牧場の候補の一つが福津市の渡半島であったという説がある。
渡半島は現在は橋が出来たが、かつては「牧の入り口」が唯一の進入口であった。
「旧入り海」と書いているように、現在の周辺の田畑や市街地は海の中であった。
馬を飼うのにはこのような島や半島が最適だ。
馬を走らせるには広い敷地が必要だし、全部を柵では囲めないので、半島というのは最的の場所で、野生馬が現存する宮崎県の都井岬も「岬」である。
牧の入り口から入ると、その奥には牧の大明神の祠がある。
かって恋の浦ガーデンになっていたあたりは平坦で牧場の可能性がある。

地元の言い伝えによると、昔、大陸から京泊(牧の大明神ちかく)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出した。馬出、馬込という地名もあった。
毛利の家臣が朝鮮出兵途上に、渡・楯崎の馬牧を見物した。
福岡藩主・黒田忠之は大島に藩営の馬牧設営をするために、津屋崎に補助牧場設営を命じた。
柳川藩の馬術の名人たちが渡の牧で馬の修練をした。

俵瀬だけが出入り口だったので、馬の管理がしやすかった。
高風呂山周辺の牧草は塩分を含んでいて、牛馬がよく育った。
          (参考 福津郷土史会 Hp)

古代には仲哀天皇が新宮町で馬事訓練を行ったという記事があり、中世でも高田牧という名称で筑前国は最重要の牧であった。
牧司がいて、壱岐や対馬の国司を歴任した人物がなっていた。宗像姓が多かったらしい。
高田牧は太宰府の管轄下にあり、太宰府の根幹をなす軍事施設であった。

牧は軍事の根幹であり、多数の軍馬確保が不可欠で、太宰府牧の側面が強い高田牧も、武門が掌握したであろう。
船原古墳の近くには、牧や馬場の遺跡は見当たらないが、古賀市内では青柳や小竹に、馬渡や戌馬場の字名があり、古代では新宮町の領域だったかも知れない。
福間の競馬場もなくなり、新宮町の中央部も近年開発がすすみ、古代遺跡の面影がなくなったが、古賀市には近郊唯一の馬術競技場が現存する。

(331) 【遺跡解説】国史跡♡船原古墳~時を越えた宝箱 - YouTube

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