阿川弘之の経歴
戦中
1946年(昭和21年)2月「ポツダム大尉」という身分で、揚子江を上海へ下り、3月末博多へ上陸復員する。広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされた故郷の街を見る。家は丸焼けだったが、両親は無事だった。実家の川向こうの牛田という町の、雨漏りのするボロ家にのがれて、中風の父親と、白内障の母親と甥にあたる若者と三人でひっそり暮らしていた戦後
志賀直哉に師事して小説を書く。
主な著作は『春の城』(読売文学賞)、『雲の墓標』、『山本五十六』(新潮社文学賞)、『米内光政』、『井上成美』(日本文学大賞)、『志賀直哉』(野間文芸賞、毎日出版文化賞)、『南蛮阿房列車』、『食味風々録』(読売文学賞)など。
阿川弘之の「作家の自画像1 私のなかの海軍予備学生」(阿川弘之・昭和出版)によると、予備学生というのは、要するに海軍の幹部候補生制度だが、陸軍の幹候が一度は兵隊の生活をするのに対して、予備学生たちは初めから士官待遇だ。その代わり、海軍流ジェントルマンとしてのシツケ教育だけは実に厳しかった。阿川弘之は台湾の高雄港の少し南の東港航空隊という大型飛行艇基地で海軍予備学生教育を、昭和十七年十月から半年間受けた。教育は万事が兵学校流だった。「至誠に悖るなかりしか。言行に恥ずるなかりしか」の例の五省も毎晩やらされた。
六ヶ月の基礎教育が終わり、阿川は昭和十八年四月、久里浜の通信学校に入校した。特班という暗号解読通信諜報関係の教育だった。
上官は「海軍にはもう少し優秀な人間もおるんだが、大臣がまるきり東條の副官だから、どうにもなりやせん」と嘆いていた。
阿川少尉ら予備学生出身の士官の中に、「アメリカ相手に勝とうなんて、貴様、とォんでもない」などと言うものもいたが、懲罰の対象にはならなかった。(ちなみにこの士官は後の朝日新聞社会部長・高木四郎氏だった。)
その一つに暗号の講義があった。二人に一組ずつ、呂暗号書の実物と使用規定、乱数表を貸与され、教官が取り扱い法を詳しく説明してくれた。
全部赤表紙の軍極秘図書で、艦が沈んだ場合敵の手へ渡らないように、表紙に鉛が入れてあったり、使用規定が水溶性の青いインクで印刷してあったり、初めて知る珍しいものばかりだった。阿川はこれらに非常に興味を持ち、熱心にこの講義を聞いた。大勢の学生の中には、乱数の加減法や文冒頭の組み立て方が一遍でよく呑み込めない者もいた。
希望通り、阿川は久里浜の通信学校へ「通信の特」として、行かせてもらうことになった。昭和十八年四月、横須賀へ帰って、「通信の特」とは「特信情報」だと分かった。敵の暗号電報を傍受解読、解析推理する作業だった。
https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/ヴィジュネル暗号
昭和十八年八月の末、少尉に任官して軍令部附を命ぜられ、特務班という部局で勤務することになった。
暗号解読といえば、「運、根、勘」とよく言われた。推理小説風の華やかな一面はなく、いくら努力しても何の成果も出てこないときがあった。
戦争末期の軍令部特務班は、士官の九割以上が阿川のような学徒出身者だった。阿川は、重慶政府の軍事外交暗号担当のC班に廻された。これは十年遅れの暗号で、よく読めた。気持ちの上では比較的楽な勤務だった。
出先の中華民国漢口で敗戦の日を迎え、復員帰国してみたら、新聞が動静を伝える国民政府要人の中に、知った名前がいくつもあるのに阿川は気が付いた。それは、かつて阿川が、デスクの上で、暗号電報の発信者着信者として、毎日おつきあいしていた人たちの名前だった。
阿川は海軍での体験を、体験のままで終わらせずに、戦後、海軍の戦記や伝記の作家になった。それは、自分の海軍に対する思いを、どうしても書きたかった。それで、阿川は次々に作品を発表していった。
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