水野広徳は、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)愛媛県松山市(伊予国温泉郡三津浜)に生れる。父光之(旧伊予松山藩士)と母ナホの次男だったが、幼少に両親を失い、伯父に育てられる。
日露戦争中に書いた閉塞隊の記録が全国紙に掲載されたことにより、明治39年(1906年)、軍令部戦史編纂部に出仕を命ぜられ、東京で『明治三十七八年海戦史』の編纂に従事し、黄海海戦、日本海海戦部分などを担当。
明治44年(1911年)、37歳で『此一戦』を博文館から刊行。これが百数十版を重ねる大ベストセラーとなり、海軍少佐・水野広徳の名は天下にとどろいた。
著作の動機は、「皇国の興廃を、一戦に期したる日本海海戦にいたっては、世上ただその大勝あるを知って、未だその真相を知るの人の少なし。想うにこれ海戦の状況は、海軍部外者の窺知し難き所なるとともに、海軍部内においては、公務多端にして文筆の閑技にたずさわるの暇なきによるものあらん」とかいている。
著作の動機は、「皇国の興廃を、一戦に期したる日本海海戦にいたっては、世上ただその大勝あるを知って、未だその真相を知るの人の少なし。想うにこれ海戦の状況は、海軍部外者の窺知し難き所なるとともに、海軍部内においては、公務多端にして文筆の閑技にたずさわるの暇なきによるものあらん」とかいている。
大正三年、水野広徳は「次の一戦」を金尾文淵堂から出版する。このときは「一海軍中佐」の匿名で刊行した。「次の一戦」は、日露戦争以後、悪化の一途をたどっていた日米関係を背景に、日米戦争のシミュレーションを行ったもので、日本海軍が最終的に全滅し、日本が敗北するという内容だ。
その意図は当時進められていた大海軍建設の「八八艦隊計画」を側面的にバックアップするものだった。
ところが、軍事と外交の機微に渡る点があるということで、問題となり、匿名も発覚して、無許可出版のかどを持って、水野中佐は謹慎を命ぜられた。刊行後三ヶ月で絶版となった。
水野中佐の謹慎処分は、当時の海軍大臣・八代六郎中将が海軍の必要性を説く内容に配慮して処分を軽減したといわれている。
大正三年十二月「次の一戦」絶版の埋め合わせとして金尾文淵堂から「戦影」(旅順海戦私記)を「一海軍中佐」の匿名で当局の許可を得て発刊した。この「戦影」も名著だ。
この「戦影」について、水野広徳は後年(昭和十六年頃)、「日本読者新聞」で次のように記している。
「最近日本の戦争文学という問題が時局やかましく論議されている。そのとばっちりで僕の旧著『此一戦』までが引合いにだされて、戦争文学に値するとか、しないとかの批判を受ける光栄に浴している」
「文学なるものの正体を、今日でもまだはっきりとつかみえぬ僕は、この書を書いた三十年前の軍人時代においてはなおさらのこと、文学などを知っていようはずはなかった」
「したがって、がらにもない戦争文学を書くなどという考えは、毛頭あった訳ではなく、ただ日本空前の大海戦であり、また大勝利であった日本海海戦の真情を、なるべく通俗的に、またなるべく興味本位に記述してみたいと思い、同書の自序にあるごとき偶然の動機から筆を執ったに過ぎないのである」
「だから記述の重点を彼我軍艦の行動や、戦闘の状況におき、もっぱら同海戦の史実を世間に紹介せんと欲したのである」
「したがってまたレマルクの『西部戦線』やブリボイの『対馬』(この書は文学的価値は知らぬが、軍事的には、相当疑問の多い書物である)のごとく、自己の環境と感想とを中心とした私戦記とは、まったく著述の目的と趣旨とを異にしているのである」
「もし個人中心の細かい記録が文学というのであれば、拙著『戦影』の方が『此一戦』よりもはるかに文学的と言いうるかも知れない」
「すなわち『此一戦』はもっぱら表面より鳥瞰した艦隊の公報的戦記であって、事実の記述を主眼としたものであるけれども、『戦影』は自分を中心として、裏面より見た旅順方面における海戦の私記である」
「そこには従軍者の環境に応ずる心理の一部が告白されているつもりである。文学的価値の有無は別として、『戦影』は日露戦役における旅順海戦を記述した日本唯一の著書として、歴史的文献に値するものとの自信を有している」。
『戦影』は『此一戦』に比べると、そうとう思想的内容が異なり、人道主義的、反資本主義的傾向がいたるところに漂っている。すでに、反軍国主義的思想が現れている。特に、『戦影』の最後の部分は次のように記されている。
「ああ戦争! ああ戦争! 戦争によって、わが大日本帝国は、いわゆる一等国の班に列し、東亜の小国民は、たちまち世界の大国民となりすました」
「されど、戦争の陰に注がれたる血幾石? 涙幾斗! 知る人、果たして幾人かある。言うなかれ、一将功なって万骨枯ると。万骨を枯らして栄華を誇るものは、あにそれ独り一介武弁の将軍とのみいわんや。見よ! そこに不具の廃兵がある! ここに無告の孤独がある!」。
『此一戦』は勇壮であり、爽快であり、表面的であり、公報的であるのに比べて、『戦影』は、悲壮であり、陰惨であり、裏面的であり、私報的であると言われていますね。
その意図は当時進められていた大海軍建設の「八八艦隊計画」を側面的にバックアップするものだった。
ところが、軍事と外交の機微に渡る点があるということで、問題となり、匿名も発覚して、無許可出版のかどを持って、水野中佐は謹慎を命ぜられた。刊行後三ヶ月で絶版となった。
水野中佐の謹慎処分は、当時の海軍大臣・八代六郎中将が海軍の必要性を説く内容に配慮して処分を軽減したといわれている。
大正三年十二月「次の一戦」絶版の埋め合わせとして金尾文淵堂から「戦影」(旅順海戦私記)を「一海軍中佐」の匿名で当局の許可を得て発刊した。この「戦影」も名著だ。
この「戦影」について、水野広徳は後年(昭和十六年頃)、「日本読者新聞」で次のように記している。
「最近日本の戦争文学という問題が時局やかましく論議されている。そのとばっちりで僕の旧著『此一戦』までが引合いにだされて、戦争文学に値するとか、しないとかの批判を受ける光栄に浴している」
「文学なるものの正体を、今日でもまだはっきりとつかみえぬ僕は、この書を書いた三十年前の軍人時代においてはなおさらのこと、文学などを知っていようはずはなかった」
「したがって、がらにもない戦争文学を書くなどという考えは、毛頭あった訳ではなく、ただ日本空前の大海戦であり、また大勝利であった日本海海戦の真情を、なるべく通俗的に、またなるべく興味本位に記述してみたいと思い、同書の自序にあるごとき偶然の動機から筆を執ったに過ぎないのである」
「だから記述の重点を彼我軍艦の行動や、戦闘の状況におき、もっぱら同海戦の史実を世間に紹介せんと欲したのである」
「したがってまたレマルクの『西部戦線』やブリボイの『対馬』(この書は文学的価値は知らぬが、軍事的には、相当疑問の多い書物である)のごとく、自己の環境と感想とを中心とした私戦記とは、まったく著述の目的と趣旨とを異にしているのである」
「もし個人中心の細かい記録が文学というのであれば、拙著『戦影』の方が『此一戦』よりもはるかに文学的と言いうるかも知れない」
「すなわち『此一戦』はもっぱら表面より鳥瞰した艦隊の公報的戦記であって、事実の記述を主眼としたものであるけれども、『戦影』は自分を中心として、裏面より見た旅順方面における海戦の私記である」
「そこには従軍者の環境に応ずる心理の一部が告白されているつもりである。文学的価値の有無は別として、『戦影』は日露戦役における旅順海戦を記述した日本唯一の著書として、歴史的文献に値するものとの自信を有している」。
『戦影』は『此一戦』に比べると、そうとう思想的内容が異なり、人道主義的、反資本主義的傾向がいたるところに漂っている。すでに、反軍国主義的思想が現れている。特に、『戦影』の最後の部分は次のように記されている。
「ああ戦争! ああ戦争! 戦争によって、わが大日本帝国は、いわゆる一等国の班に列し、東亜の小国民は、たちまち世界の大国民となりすました」
「されど、戦争の陰に注がれたる血幾石? 涙幾斗! 知る人、果たして幾人かある。言うなかれ、一将功なって万骨枯ると。万骨を枯らして栄華を誇るものは、あにそれ独り一介武弁の将軍とのみいわんや。見よ! そこに不具の廃兵がある! ここに無告の孤独がある!」。
『此一戦』は勇壮であり、爽快であり、表面的であり、公報的であるのに比べて、『戦影』は、悲壮であり、陰惨であり、裏面的であり、私報的であると言われていますね。
第一次世界大戦では2度にわたり欧米諸国を,印税で得た私費で視察し、戦時下である1度目の視察の後に大正6年(1917年)に『東京朝日新聞』に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京が灰になる可能性を早くも指摘。
2度目の視察の際には、兵士同士の戦いから国家総力戦となり、民間人である女性子供老人たちの死体の山を目の当たりにし、帰国後、海軍大臣・加藤友三郎に「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告(加藤は後にワシントン軍縮会議に日本側全権として出席、軍縮条約を締結)。
「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」として軍国主義者から一転して平和主義者に転じ反戦・平和論を説いた。
大正十年正月、東京日日新聞(現・毎日新聞)の依頼に応じて、「軍人心理」を書いた。その内容は、第一次大戦後のヨーロッパの状況から、軍隊の威力を保持するために、「神聖純潔なるデモクラチックな軍国主義を実現せよ」と軍隊の民主化、軍人の参政権を主張した。
しかも、水野大佐は上官の許可を受けずにこの論文を発表したため、三十日間の謹慎処分を受けた。思想的転換をとげ、自らの立場に矛盾を感じていた水野大佐はこれをきっかけに四十七歳で海軍を去った。
海軍を辞めた水野広徳は、昭和二十年十月十八日に腸閉塞で死去するまで、反戦、平和主義の軍事評論家として生きた。
水野の主な著書を見てみよう。「海と空」(昭和五年・海洋社)は、日本対米国の未来戦記。海戦においては、戦艦による決戦ではなく、航空機が勝敗を決することを予見し、大艦巨砲主義では勝てないことを述べた。また、アメリカ軍航空機による東京大空襲の描写や、日本の資源不足で戦争続行ができなくなり、国民生活は窮することも予言的に記している。驚くほど、当たっている。
「打開か破滅か興亡の此一戦」(昭和七年・東海書院)は、「海と空」をベースに、それを膨らませて書いた。当時、「日米戦争に踏み切れ」と煽りたてる多くの著作物が刊行されていたが、それらに対する批判や評論が多数掲載されている。けれども発売後、まもなく発禁となったのです。後に「興亡の此一戦」と改題して再刊行された。
そのほか、「秋山眞之」(昭和八年・秋山眞之会・平成二十一年マツノ書店から復刻)、「秋山好古」(昭和十年・秋山好古大将伝記刊行会・平成二十一年マツノ書店から復刻)なども刊行している。
平成七年には、「水野広徳著作集」(雄山閣出版・全八巻)が出版され、「此一戦」、「戦影」、「次の一戦」、「興亡の此一戦」、「自伝」、「日記」、新聞・中央公論・改造などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などが所収されている。また「海軍大佐の反戦」も出版されている。
水野は当時軍人・作家・評論家として日本の将来の危機を見事に予見しており、現在から見れば極めて貴重な人物だったといる。
海軍を辞めた水野広徳は、昭和二十年十月十八日に腸閉塞で死去するまで、反戦、平和主義の軍事評論家として生きた。
水野の主な著書を見てみよう。「海と空」(昭和五年・海洋社)は、日本対米国の未来戦記。海戦においては、戦艦による決戦ではなく、航空機が勝敗を決することを予見し、大艦巨砲主義では勝てないことを述べた。また、アメリカ軍航空機による東京大空襲の描写や、日本の資源不足で戦争続行ができなくなり、国民生活は窮することも予言的に記している。驚くほど、当たっている。
「打開か破滅か興亡の此一戦」(昭和七年・東海書院)は、「海と空」をベースに、それを膨らませて書いた。当時、「日米戦争に踏み切れ」と煽りたてる多くの著作物が刊行されていたが、それらに対する批判や評論が多数掲載されている。けれども発売後、まもなく発禁となったのです。後に「興亡の此一戦」と改題して再刊行された。
そのほか、「秋山眞之」(昭和八年・秋山眞之会・平成二十一年マツノ書店から復刻)、「秋山好古」(昭和十年・秋山好古大将伝記刊行会・平成二十一年マツノ書店から復刻)なども刊行している。
平成七年には、「水野広徳著作集」(雄山閣出版・全八巻)が出版され、「此一戦」、「戦影」、「次の一戦」、「興亡の此一戦」、「自伝」、「日記」、新聞・中央公論・改造などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などが所収されている。また「海軍大佐の反戦」も出版されている。
水野は当時軍人・作家・評論家として日本の将来の危機を見事に予見しており、現在から見れば極めて貴重な人物だったといる。
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