2019年2月3日日曜日

巨大古墳の時代(更新)


下の新聞記事のように、近々、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されそうであり、仁徳天皇陵は2018年の歴史ニュースの1位だったので、その歴史的背景をまとめてみる。

左:百舌鳥古墳群;右:古市古墳群

応神・仁徳天皇陵は伊勢神宮と明石海峡を結ぶ一つの直線上にある。

大形古墳は、4世紀には大和盆地内の柳本古墳群、佐紀古墳群からはじまる。
しかし5世紀から大阪平野(和泉・河内)にうつり、古市・百舌鳥古墳群に移動する。倭五王が活躍した時代である。
 
王墓の移動の意味については二つの説がある。

1)巨大古墳は本来その勢力の本拠地に造営するのが原則という説。

奈良盆地の勢力に替わって、大阪平野の勢力が、ヤマトの王の地位についたとみるのが、自然である。
 その勢力は、河内南部と和泉北部の連合勢力で、交互にその盟主についたと考えられる。
①②③は古墳の大きさの順位
2)王墓の位置は政治的拠点を意味しないという説。

大阪平野には、政治拠点となる王宮の遺跡が見当たらず、大阪平野の勢力は、生産機構の勢力の活動舞台であったらしい。
のちの継体朝の成立時に、継続されていた奈良王朝と婚姻関係を取り結ぶのは、畿内や列島各地の首長層の承認をうるためであったと考えられる。
白石太一郎氏は、邪馬台国が東遷した当初から、ヤマト王朝は河内と奈良盆地の領域を勢力範囲にしていたという考えだ。
王宮は守りの堅い奈良盆地に置いていたが、四世紀後半になると、朝鮮半島情勢の変化で、河内の勢力が大きな役割をはたすようになり、勢力を拡大した。
しかしヤマト王朝は、伝統的な鏡や玉の製作や宗教的行事などを、奈良盆地で継承していた。
政権の移動ではなく、政権運営の分担分離という見方である。
これが妥当な見方であろう。しかし倭五王が宋書によると、高句麗の南下を防いでくれた功績により、安東大将軍などと持ち上げられた。
最後の武王(雄略)は、驕りをもって独裁権力を握ろうとする暴君の姿で、記紀に描かれている。ヤマト王朝との対立が全くなかったわけではなさそうだ。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/02/blog-post_39.html

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