2021年3月27日土曜日

ノモンハン事件

 ノモンハン事件は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。

1930年代に、満州国を実質的に支配していた日本と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。

満州国軍モンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍ソビエト赤軍戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

結果は、日軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢であったが、地上戦は戦車火砲の力の差が甚だしく、敗退に終わり、ソ連とモンゴル共和国の主張する国境線はほぼ維持された。

ソビエト連邦によるポーランド侵攻直前、ソ連政府が所在する首都モスクワのクレムリンで「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」との事件の停戦の合意が、9月15日深夜に成立した

当時中学生だった私の記憶でも、大きな敗戦という感じではなかった。戦後帰国した年長の従兄の話をきいて、酷い敗戦であり、多くの兵士が戦死したことをしった。

終戦直前の軍事訓練では、戦車に対する攻撃は、塹壕の中に潜んでいて、戦車が近距離に来た時に

飛び出し、座布団爆弾をキャタビラのなかに投げ込む練習をさせられた。

その後入手した図書や、テレビでの報道などで、陸軍の参謀作戦本部では、インパース作戦と同じような作戦の失敗を繰り返していたことがわかってきた。

1)陸軍参謀が、現地の地政や、敵軍の軍備などの詳細をしらないまま、積極拡大論者の威光だけで、作戦を強硬した。(派遣された参謀は、服部卓四郎、辻政信)

2)進軍した兵士軍にたいする支援物資や食料の補給計画は最小限にとどめていた。

3)敗戦後、作戦参謀の多くは、一時的に閑職に転職されたにすぎず、その後太平洋戦の開戦論者になって、中央で活躍した。他方現地の司令官たちは、厳しい諮問をうけ、自決指令をうけて多数の自決者がでた。

戦力の比較:          ソ連           日本

   師団数          三ケ師団        一ケ師団

   戦車数           250         100

   戦車重量          32t          15t

   主砲口径          85mm         57mm

   主砲初速          793m/s                        350m/s

   前面装甲厚         45mm          25mm

資料は、陸軍少佐、曽根正儀氏の論文による。ソ連の戦車の性能は当時の西欧平均値で、秘密兵器ではなかったという。

日本の戦車97式は、このままの仕様のものが、殆ど太平洋戦争でも使用された。

辻政信参謀がインパール作戦でにも参画していたのは、衆知のとおりである。

ノモンハンと同様に、インパール作戦の参謀たちの処分は緩やかだった。

戦後衆議院議員になった辻は、埋蔵金探しに東南アジアに出かけたらしいが、消息不明となった

らしい。










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