2024年2月6日火曜日

小山田斎宮

 日本書記に仲哀天皇が亡くなったので、神功皇后が仮葬の場所を小山田斎宮にしたことが記載されている。

江戸時代に貝原益見がこれを久山町の山田斎宮と推定したために、地元の学者(長先生たち)もこれを信じておられるかたが多い。貝原益見は福岡から山田まできて、小山田は遠いからと引きかえしている。

古賀市の小山田斎宮は辺鄙な場所のため、また古賀市の広報が不十分のため存在をあまり知られていない。
しかし、河村哲夫氏
の本では、「遠賀川河口から筑紫平野に上陸した一行が香椎までたどった経路」が地図のようなルートだったと推定し、久山まわりで香椎にいくのは不自然であり、古賀の小山田経由のほうが自然である。
仲哀天皇の遺体をこの経路にそって送り返し、香椎、小山田、穴門の順に移動させ、穴門の豊浦宮が忌宮神社と呼ばれるになったと想定している。
私も地元郷土研究者として同じ意見だったので、大いに意を強くした次第である。





河村哲夫氏は日本 の歴史家。. 立花壱岐 研究会会員。. 日本ペンクラブ 会員。. 
福岡県文化団体連合会参与。. 福岡県 柳川市 生まれ。. 
九州大学法学部 卒。. 元 九州産業大学 講師

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