2012年5月3日木曜日

古賀の清瀧寺と戦国・江戸時代武将の縁

古賀市の北東部の山麓に清瀧寺という古刹がある。
奈良時代の行基和尚により開かれた寺といわれている。
清瀧寺本堂




本堂の内部


本堂から上の
その薬師堂に登る石段の前に、梵字をかかげた石の鳥居がある。
かっての神佛習合のしるしで、薬師如来の種子をしめす文字という。


薬師堂の横には、大きな梵鐘があり、年末にには108の鐘がつかれる。芦屋釜でつくられた梵鐘である。


ここからは、古賀市の平野の風景が一望できる。

大晦日の鐘衝き



近くには県指定の天然記念物の、大きなイスノキがある。枝垂れ桜ともあったが枯死した。
最近は海外からの観光客も増えて、麓には外人相手の宿もできている。

戦国時代には、地元の薦野立花家の尊崇があり、立花増厚の
棟札などが存在している。
背後の鶫岳(不動山)には山城があった。



かって平野住職の講演で、清瀧寺は江戸時代には黒田藩との関連もいろいろできたことを拝聴した。
故平野住職



福岡市の西公園(荒津山)地区には、いま黒田長政とその父孝高(如水)を祀る光雲〔てるも〕神社や教育大付属小学校などがある。

黒田二代藩主忠之は慶安元年(1648年)、荒津山にあった金龍寺を福岡西町に移し、三年がかりで徳川家康を祀る筑前東照宮を建立した。この事業には寛永年間に起こった黒田騒動によって失した幕府の信用を取り戻すという意味合いもあったと考えられている。
さらに東照宮の祭祀を執り行う天台宗の宮司坊松源院も山麓に創建された。江戸期の奥村玉蘭の筑前名所図絵にはこれらの建物が描かれている。

そののち東照宮の南西に三代将軍徳川家光の位牌を祀る安穏寺源光院が薬院から移された。
これらは明治維新以後撤去され、跡地に光雲神社や福岡男子師範学校などができた。この付属小学校は私の母校だが、当時は何も知らなかった。
また松源院が撤去されるとき、寺の仏像、仏具、資料などは、わたしの住む古賀市の天台宗の清瀧寺に移管された。
五代藩主黒田宣政のものだったという十六善神図もある。
ここでも、私は松源院や清瀧寺との縁が生じた。

さらに清瀧寺に葵の家紋がついた位牌がある。
八代将軍吉宗は、奇跡的な幸運でえらばれた将軍職を、自分の血筋に継がせたいと思った。
そこで田安家や一橋家をつくり、今までの御三家のほかに、将軍継承の権利をつくった。
三男が一橋家を継ぎ、その四男(吉宗の孫の一人)が、黒田家に襲封して7代藩主黒田治之となった。
彼が持参した父徳川 宗尹(とくがわ むねただ)の位牌は、西公園の松源院におかれていたが、院が廃止された時に、同じ天台宗の清瀧寺に移されたものである。







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