古賀市の北東部の山麓に清瀧寺という古刹がある。
奈良時代の行基和尚により開かれた寺といわれている。
本堂の内部 |
本堂から上のその薬師堂に登る石段の前に、梵字をかかげた石の鳥居がある。
かっての神佛習合のしるしで、薬師如来の種子をしめす文字という。
近くには県指定の天然記念物の、大きなイスノキがある。枝垂れ桜ともあったが枯死した。
最近は海外からの観光客も増えて、麓には外人相手の宿もできている。
戦国時代には、地元の薦野立花家の尊崇があり、立花増厚の
棟札などが存在している。
背後の鶫岳(不動山)には山城があった。
かって平野住職の講演で、清瀧寺は江戸時代には黒田藩との関連もいろいろできたことを拝聴した。
故平野住職 |
黒田二代藩主忠之は慶安元年(1648年)、荒津山にあった金龍寺を福岡西町に移し、三年がかりで徳川家康を祀る筑前東照宮を建立した。この事業には寛永年間に起こった黒田騒動によって失した幕府の信用を取り戻すという意味合いもあったと考えられている。
さらに東照宮の祭祀を執り行う天台宗の宮司坊松源院も山麓に創建された。江戸期の奥村玉蘭の筑前名所図絵にはこれらの建物が描かれている。
そののち東照宮の南西に三代将軍徳川家光の位牌を祀る安穏寺源光院が薬院から移された。
これらは明治維新以後撤去され、跡地に光雲神社や福岡男子師範学校などができた。この付属小学校は私の母校だが、当時は何も知らなかった。
また松源院が撤去されるとき、寺の仏像、仏具、資料などは、わたしの住む古賀市の天台宗の清瀧寺に移管された。
五代藩主黒田宣政のものだったという十六善神図もある。
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