2012年7月1日日曜日

曽我神社と大森神社

鎌田の曽我神社
 東区の蒲田に曽我神社があることを不思議に思っていた。
福間の西郷地区の豪族河津氏のルーツは、伊豆の伊東氏である。
伊豆では伊東荘のほかに河津荘を領して、兄弟の中で弟が河津氏を名乗るようになったという。
 河津氏は永仁元年(1298)鎌倉幕府の北条貞時から糟屋の荘園七百町を与えられ、鎮西探題北条兼時に従って筑前に移住してきたという。
 元寇を機として、鎌倉幕府は鎮西探題を立てて北条氏の一族を送り込み、大友氏・少弐氏を指揮下において、統率強化の名の下に守護職の多くを北条一族が固めていたのである。
 筑前に下った河津貞重は小仲庄(現篠栗町尾仲)に居を定め館をかまえ、高鳥居城を築城した。
 河津の祖先の伊東祐親は曽我兄弟の祖父であり、これで曽我神社がこの地に作られたことが想像できる。
 のちに河津家が福間の西郷荘に移り作った大森神社は、伊東地区の三代権現を祀る神社である。
福間の大森神社
 室町時代中頃、西郷(福間町)を領地としていた河津興光は、大内家の命で舟岡山(京都)の戦いに参戦したが、深手を負って河を渡ることが出来ず一命を失うところだった。その時、不思議なことに突如、大鯰が背に鞍をつけた。
 興光は、その鯰に乗って河を渡り本陣に帰り着くことが出来、命拾いをした。
 帰館した興光は、「大鯰は、西郷の産土神、大森宮の御祭神のお使いに違いない」と、鯰を神の使いとして祀り、以後この地で鯰を食べることを禁じたという。
拝殿前に、神使の阿吽のナマズの石像が奉納されている。

1 件のコメント: