名島城の山頂からは、今でも立花山がよくみえる。
10年後隆景が主な家臣を連れて小早川家の本貫である安芸国三原へ隠居した。
養子の秀秋はその所領30万7,000石を相続する形で筑前(名島城)国主となった。
しかし秀秋は名島城主となるが、朝鮮出兵の時の働きぶりを批判され、秀次の謀反疑惑とも関連して、秀吉から名島城を奪われてしまう。
名島城主30万石から、福井の北庄城主15万石に格下げになった。
そのあとの名島城は豊臣家の直轄領となり、石田三成の管理化におかれる。
しかし三成がここに乗り込んできたわけではなく、彼の部下が代官として駐在した。この期間は短いのであまり知られていない。
(代理人による管理という説もあり、また石田三成が実際に1598.6.16.に名島城に到着していたが、しかしその2ヶ月後の8.18.に秀吉が亡くなり、急遽大阪に帰ってしまったという説もある。)
短期間ながら石田三成がいた名島城で、どんな改革が計画されていたのか、何も記録が残っていないのは残念だ。
やがて秀吉が死亡して五大老の合議制になると、秀秋は許されて、半年後の1599.2.5.に再び名島城にもどってくる。
家康と三成の関ヶ原の戦に、秀秋は名島城から1万5千の兵を率いて出陣したという。
秀秋の裏切りで関ヶ原は家康側の勝利となり、その功績で秀秋は旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封されれ、岡山城主となり、名島城には黒田長政が入る。
(秀秋は二年後に精神異常をおこして早死する。死没 慶長7年10月18日(1602年12月1日))
長政が名島城をすてて福岡城を築いたのは、秀秋の残影をきらったのが一因かもしれない。
黒田一族は筑前に入国して一旦名島城にはいったがが、城が狭いので福岡城を建築する際に、名島城の門や石垣を福岡城に移動したというわれている。
今日の新聞によると、久留米城を建築した有馬一族とも親しかったので、名島城の一部を久留米城にもお祝いとして献上したということが書かれていた。また土地を民間人に売り払ったので、私有地となり、最近やっと福岡市が天守閣跡地を買い戻して、展望公園化するという。
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