菊池一族は中世平安時代から、室町時代の後半まで約450年に渡って、この菊池地域を中心として活躍した豪族である。
源平合戦や元寇など日本史上の有名な戦いにも参加し、元寇では、蒙古襲来絵詞にその勇姿が描かれている。
南北朝時代に、一貫して南朝のために働いた肥後の菊池一族は
戦前の歴史では忠君愛国のモデルとして、楠木正成と共に賞賛された。
もともと11世紀に九州に下向した藤原一族が在地名の菊池を名乗り、肥後国の在地勢力として定着したのが菊池一族で、その系図は膨大である。
源平時代にはまず平家につき、壇ノ浦の戦のとき寝返って源氏側についたが、頼朝の疑念をまねいて恩賞はすくなかった。
元寇に立ち向かったのは「鎌倉武士」ではなく、九州の土豪武士団VS元寇と考えた方が良い。
菊池市(熊本県)では、明と交易をしていた時の菊池川の船着き場の遺稿が発掘調査中という。有明海から奥まった場所にある菊池氏が大陸と交易していた事実が、元寇襲来の意味を、さらに書き換えるかもしれない。
だから鎌倉幕府との関係はあまり良くなく、やがて幕府の勢力が弱まると、在地勢力としては鎮西探題を最初に攻撃した。
その後建武の新政が成立すると、菊池氏は後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。この地区の菊池神社には、当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している。
この中では太刀洗の戦いで武勇を示した武光がもっとも有名で、銅像もある。これは大保原の戦い(大原合戦ともいう)で正平14(延文4)1359年8月16日である。
大友や少弐が足利や北、南の様子をみながら組む相手を変化したのとは対照的であった。肥後モッコスの精神が一族に定着していたのだろう。
南北朝統合のあとは肥後守として定着していたが、一族間の家督争いがもとで滅亡してしまった。
しかし菊池地方の豪族として残った隈部親永や山鹿彦次郎らの一族は、秀吉の九州統治に最後まで反抗して戦った。
0 件のコメント:
コメントを投稿