織田信長の時代、毛利氏は尼子氏を滅ぼし、中国地方の全域を制覇して、120万石を領有をする大国であった。
秀吉が備中高松で毛利征伐の最中に本能寺の変がおこり、秀吉が和睦して中国大返しをしたとき、毛利三柱のなかで、秀吉追撃に反対したのは小早川隆景であった。
秀吉はこれを高く評価し、隆景に伊予を与え独立させようとしたが、毛利家の領地にゆずった。
その後秀吉の九州征伐では、小倉城を攻略し、朝鮮出兵でも大軍を退ける武功をあげ、秀吉の信頼を勝ち取った。
しかし小早川は、筑前で大友/毛利時代に争奪戦が繰りかえされた立花城を当面の拠点にしたが、すぐに名島城の築城計画もたてていた。
その背景には、すでに秀吉の朝鮮出兵の計画があったからだという説が最近唱えられている。
名島城跡
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名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
さらに、瀬戸内の村上水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的で、当初の九州での秀吉政権の柱としようと考えたようだ。
だからこの二つの城で、織豊時代の新しい築城技術を小早川軍に教え込んで、朝鮮での倭城作りの訓練をした。
立花城には2,3年しかいないのに、大改修をおこなった理由は、この訓練のためであった。
「今日は玄界義塾で、「名島城の縄張りから何がわかるのか」‐-朝鮮出兵を通じた小早川・毛利氏の近世大名への道程ーーというタイトルで、九大の木島先生の講演を聞いた。
従来の歴史書では、九州平定後に秀吉が小早川に筑前入国を命じたのは、毛利の戦力分散を考慮したとする説が多かった。
木島先生の話では、名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
瀬戸内の水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的だったようだ。
その裏付けとなる資料や古文書を多数しめされたし、レジメもいつものように多頁の立派なものであった。
秀吉は隆景を信頼していたので、自分の死後秀頼を守るための五大老に徳川、前田、宇喜多、毛利輝元とともに小早川隆景をいれた。
しかし隆景も秀吉のあとを追うようになくなった。
関ケ原の戦では、その養子の小早川秀秋が、東軍勝利の切っ掛けをつとめた。
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