古賀市の中世城館跡は、8か所ある。
[薦野]①臼ケ岳(薦野)城 ②鶫岳城 ③小松岡砦、
[米多比]④米多比城、
[町川原・青柳]⑤古子城⑥四万城⑦新城山城,
[筵内]⑧鷺城…福岡県文化財調査報告書(第250集)
1)古賀町誌では薦野氏が10頁分、米多比氏が5頁分の記載で、最近発行の「古賀市うるわし」でも、薦野氏がメインで、米多比氏は2割程度の行数で紹介されている。
2)市の広報誌では米多比氏を昭和50年頃掲載、薦野氏は平成25年にやっと掲載された。
米多比鎮久の記事〔連載の一部) |
薦野増時の特集号の表紙 |
4)古文書としての数は、米多比氏が150、薦野氏が80。
立花鑑載の謀反事件の時に、薦野宗鎮と米多比大学は暗殺されるが、謀反を鎮圧した立花道雪が立花城主となり、二人の子薦野増時と米多比鎮久は忠臣の子として取り立てられ、次の城主立花宗茂にもよく仕えた。
5)宗茂が柳川城に移封したときの禄高は、薦野氏が4000石、米多比氏が3500石。
6)古賀時代の明確な石高数値は不明だが、大内勢と大友勢が拮抗していた時代は、米多比氏の活躍が上位だったようで、大内・宗像勢が撤退し、さらに大友が滅んで黒田が入るときに、立花氏が柳川に移動してからは、薦野勢の活躍が上位になったようだ。
7)同時代の薦野増時と米多比鎮久を比較すれば、増時は戦場の活躍のほかに、先見性や交渉力などが優れていたようだ。
8)黒田時代では、筑前で薦野氏の子孫が黒田姓や立花姓で活躍しており、なかでも立花実山が歴史に名をのこしている。
幕末の黒田藩偽札事件の筆頭責任者として切腹した立花増美は薦野氏の子孫である。
最近では「薦野の歴史をつなぐ会」の皆さんが、案内表示を設置したり、史跡案内をしたりされているので、薦野氏のほうが親しみやすくなっている。
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