その苦労の一つが徳川家康の旗印にあらわされている。
若い頃今川義元の家臣だった家康は、桶狭間の戦で義元が討ち死にしたことを知った時、周囲を織田軍囲まれており、前途を悲観した家康(当時は松平元康)は、祖先の墓前で自害しようと決意した。
そのとき、菩提寺(大樹寺)の住職がつぎの言葉を教えた。
『厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)』
(争いで穢(けが)れた国土を、住みよい浄土にする)のがあなたの役目と説得して、松平元康の切腹を思いとどまらせた。
それ以来、この言葉が徳川家康の旗印となっている。
ただこの言葉は戦場での武士を鼓舞するには、すこし難解な言葉に感じられる。
幼年の家康の教師だった太原雪斉だったら、どんな言葉を教えたであろうか。
さらに武田信玄と三方ヶ原で戦って大敗北し、哀れな姿で逃げかえったときは、反省のため「しかみ像」を絵師に描かせている。
最近はその絵の立体像まで作られたようだ。
浜松城が出世城と呼ばれるのには、このような反省があったからだ。
最近三方ヶ原の戦の詳細な経過を知った。
武田信玄は足利幕府と組んで、信長・家康同盟の包囲網をつくった。
今まで言われていた信玄軍の進路 |
最近発見された文書 |
信玄軍の実際の進路 |
しかし信玄はそれを予想して、魚鱗の陣で待ち構えて、家康の鶴翼の陣を撃破した。
信玄と家康の陣形 |
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