松下村塾の家屋 |
塾生たち |
別名を市ニ郎といったらしい。毛利藩の藩士となっている。
安政4年8月に入門し、万延元年に久坂玄瑞らと山口にでかけたことまではわかっているらしい。
しかしその後の消息は不明で、残念だ。
松蔭の「東行前日記」というメモ的文書のなかにも、荒次郎たちのことが記載されている。松蔭も目をかけていたらしい。
藤野・瀬能・阿座上に與ふ
子大至り、具さに三生及び林榮の讀書頗る進むことの状を語る。僕が喜び知るべきなり。男兒斯の世に生れて、酔生夢死、一として稱道すべきものなければ、啻に君父に辜負するのみならず、将に何を以て天地に俯仰せんとするや。今僕将に東に往かんとす、歸來期なく、復た諸生を見るべからず。諸生厚く自ら淬勵し、忠孝を天地に立てよ、乃ち學ぶ所に負かざるなり。目今吾が黨頗る志士あり、吾れの去る、未だ悲しむに足らざるなり。
【用語】
藤野・瀬能・阿座上 = 藤野荒次郎・瀬能百合熊・阿座上正蔵。何れも松陰の兵學門下であり、又村塾生であった。
林榮 = 未詳。
稱道 = 褒め称える。
辜負(こふ) = そむく。
天地 = 『孟子』尽心上篇第二十章「仰不愧於天、府不作於人」を踏まえている。
淬勵(さいれい) = 刻苦勉励すること。
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