その子堅武は、福岡の変(秋月の変)に参加し、福岡県令渡辺清により処刑された。
県令の渡辺清は、大村藩の武士時代は勤皇派で、加藤司書の助命運動を行ったくらいの人物だったが、明治維新以後は明治政府の官僚となり、福岡県の県令に選ばれていた。
内心は堅武を助けたいと思っていたが、立場上やむをえない判断だったらしい。
その後堅武の未亡人を密に自分の後妻にえらんだというから複雑である。
(秋月の乱の首謀者のうち武部小四郎は、福岡藩による勤皇派弾圧事件「乙丑の変」で切腹した建部武彦の遺児、加藤堅武もその時同じく切腹した元福岡藩家老加藤司書の遺児であった。)
渡辺清は肥前大村藩士で 弟の渡辺昇とともに
明治維新の志士として知られた勤王家だった。
清は 普通の役人とは違っていて 筑前勤王党の
加藤司書、平野國臣等と交流もあり
戊辰戦争での活躍が認められ、新政府軍の参謀として軍を率い、西郷隆盛の信頼は厚く、
江戸城明け渡しの際の西郷隆盛と勝海舟との会談に同席している。
乙丑の獄による 家老加藤司書切腹の際は
助命のため奔走しているが
明治7年(1874)福岡県令になって 明治10年3月27日に発生した 「福岡の変」に
加藤司書の長男堅武が参加し 職務としてやむなく
処刑に当たるという皮肉な巡りあわせとなった。
後に堅武の未亡人チセと再婚したのは 弾圧した党への同情と 職務への忠誠との 板挟みに苦悩していたものと思われる。
福岡の乱 (福岡の変)
元福岡藩士の武部小四郎、越智彦四郎、平岡浩太郎、加藤堅武ら福岡党は
明治初期の反政府士族の反乱の(1874年)佐賀の乱
(1876年)の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱の
何れにも同調せず、
西郷隆盛の決起を待ち続け
1877年3月27日、西郷軍の熊本城包囲を知って、福岡城を攻撃した。
首謀者のうち武部小四郎は、福岡藩による
勤皇派弾圧事件「乙丑の獄」で切腹した 建部武彦の遺児。
興志塾に学び、ここで同志となる越智彦四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔、頭山満、進藤喜平太、奈良原至、らと出会う。
1875年2月、大阪で民権確立を目指す集会に
越智彦四郎と共に福岡を代表して参加し
板垣退助率いる土佐立志社の主唱に応じ、
福岡に戻り、政治結社「矯志社」を結成。
矯志社には、平岡浩太郎、頭山満、進藤喜平太、
箱田六輔、奈良原至らが参加している。
(福岡の変)が敗れ 斬刑に処せられた。享年31
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