長男信康は織田信長の意向で自害させられ、次男秀康は秀吉の養子を経て、関東の名族結城家10万石の当主となった。
九州には無縁の人物と思っていたが、その子孫は豊後に縁があった。
秀吉の没後秀康は家康に仕え、関ヶ原戦では、当初の会津攻めに参加し、小山評定のあとは宇都宮での防衛を命じられた。
当時はまだ家康は内心秀康に不安をもっていたし、秀忠に手柄をたててもらいたかったらしい。
だが秀忠が関ヶ原の合戦におくれる大失態を犯したので、兄の秀康の武功にたいし家康は、越前68万石の巨封を与え、松平姓が許された。
松平秀康 |
かくして越前松平家は徳川御三家以外の「制外の家」との格付けとなった。
しかし秀康は悪病にかかり34歳で病死したので、嫡子忠直が13歳で後継者となった。
そのため、お家騒動が起きるなどしたが、大阪夏の陣では、忠直軍が真田幸村の軍勢を撃破し、城内に攻め込んで大成果をあげた。(今年の大河ドラマに登場するかな?)
ところが、家康からは初花の茶入れ、秀忠からは脇差と掛け物のみで、加増の恩賞がなかったため忠直はおおいに不満をもった。
平和な時代となり、江戸城内ではいつも御三家の風下に甘んじる待遇に不満がつのり、参勤交代を拒否したり、常軌を逸した行動が目立つようになった。
幕府もついに、家督を嫡子光長にゆづり、五千石で隠居することを言い渡し、豊後国萩原に配流された。
彼の賄領は府内藩のなかの大分郡の10村(秋岡・曲・津森・片島・羽田・下郡・千歳・山津・三川・乙津)と速見郡の2村(鉄輪・北石垣)であった。1村500石平均の時代だから此れ位だったろう。
のちにはさらに奥地の津守に移されて、27年におよぶ配流生活をおくり、57歳で没した。
松平忠直 |
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