2019年1月27日日曜日

箱崎と九大の歴史(改訂版)

箱崎の地形と名前
  
  中世に人工の石堂川を造るまでは、博多と箱崎は地続きだった。
博多から箱崎を眺めると、地形は北に突き出した砂丘地帯だった。考古学者は縄文期にはかなりの規模の土地が造成されつつあったと推定している。この造成は湾内海流と海風により造成されたものだ。
古代の遺跡も多く、元寇防塁の跡も最近九大キャンバス内で発見されて,防塁推定線も明らかになった。
元寇防塁推定線と箱崎遺跡調査範囲(楕円形内)

 北に向かってホコのように突き出ている地形をホコサキから箱崎とよぶようになった。
箱崎八幡宮の創建は、平安時代923年。八幡菩薩は仏教用語で、放生会も仏教行事である。箱は仏教三字「戒・定・慧」の書をおさめた箱を意味する。
貝原益軒の応神天皇の胞衣を収めた箱に由来するという説は、時代が不適当とされる。
 箱崎八幡宮の参道は海岸まで伸びており、そこは白砂青松で、風光明媚の海岸として有名である。豊臣秀吉が九州に西下した時は、長期滞在して2度も茶会を開いたことでよく知られている。
 江戸時代、唐津街道の宿場町でもあった箱崎は、長らく半農・半魚の村だったといわれる。しかし明治時代に入り、博多の街が栄えてくると、博多商人の別荘が海岸線にそった白浜町に増えてきた。明治末期には、海汐湯の抱洋閣箱崎水族館が海岸に建設された。


箱崎水族館





九大誘致合戦

  その明治末期に九大誘致の話が持ち上がった。九州帝大工科大学の誘致運動は、明治40年に西新町と箱崎町が手をあげた。東部には京大福岡分校の医科大があり、福岡市は西部の西新町を希望していたが、文部省は総合大学化を考えて、箱崎に決定した。
しかし用地の買収が始まると、一部は環国寺跡の地蔵森だったが、大部分が良好な畑地であったことから、一転して地主の反対運動が巻き起こる。
一帯の畑地帯は、キュウリ、ナス、ネギなどの博多ブランドで、福岡市街や筑豊に出荷されていた。地下水を汲み上げる「はねつるべ」が500か所もあったという。
結局、土地収用法を適用して市は安値で約20ヘクタールを買収し、国に寄贈した。この買収費用65700円は、当時の市の予算の13%を占める巨額だった。
大学側も元の農地所有者を、その後の記念行事などに招待して饗したという。元地主であった私の親類の家も、50周年記念に招聘されたということだった。


学生の街
 
 箱崎町住民にとっては、誘致合戦に勝ったことは天与の恩恵であった。大学設立以後、多くの教職員、学生が何らかの形で箱崎の経済を潤してくれた。

 教職員の借家、学生の下宿、間借りなどの需要が急増し、農家も納屋を改築して下宿をはじめるところが多かった。
街には学生向けの食堂、喫茶店、酒をだすバッカス、麻雀店、ビリヤード、銭湯が増えた。
庄野の「前途」の中に書かれている珍竹食堂

私も子供の頃、玉突きの音が窓から聞こえてきたのを思いだす。銭湯では、学生が宿題の回答論文枚数が30ページとか話しているのに驚いたことがある
。箱崎をパリ―の学生街カルチェ・ラタンに例える人もいた。
 若者が多いから、アルトハイデルベルヒに似た話も多い。大宰府の有名な「お石茶屋」の下働きの娘さんが、帝大生を見染て下宿のある箱崎まで走った。女主人のお石シャンが後を追って連れ戻しに来たという。当時の帝大生はもてたらしいが、帝大生末期の私達には食料難の記憶しかない。
 学生は夜がおそいし、農家や漁師は朝がはやいので、箱崎は泥棒の入るスキがないといわれた。

箱崎浜の埋め立て
 
明治10年の西南戦争のとき、博多港は補給基地となったが、当時は岸壁がなく遠浅で、沖に停泊した船に、ハシケで荷役する状態であった。日清戦争の時も、市や県で築港計画をたてたが、財政難でながれた。
明治31年に民間資金で、博多船だまりと西公園下の築港が出来たが400トン程度の船が接岸できる程度だった。
明治43年の博多港

大正元年に、杉山茂丸を代表とする博多湾築港(株)が資本金300万円で設立され、大規模な博多築港計画が立てられた。漁業権問題の交渉などもはじまり、一部の工事は着手された。しかし世界大戦がおこり、物価高騰や戦後の不況のため計画縮小となり、大正9年に中断されて、昭和4年まで放置された。
昭和4年7月に博多湾築港(株)と飛島組の共同により、名島の鼻から石堂川尻までの埋め立て計画が承認され、福岡市も埋め立て権利者に参加した。
これにより抱洋閣や箱崎水族館などの閉鎖も決り、数年後に閉鎖された。私も水族館には2回ほど入館した記憶があり、閉鎖後の抱洋閣はかくれんぼ遊びの場所であった。
抱洋閣

箱崎水族館


箱崎八幡宮の砂浜が埋め立てられたのは、昭和12~13年頃だが、名島側と石堂川側はそれより前に埋められていた。わたしが子供の頃の海水浴場だった白浜は、小学4年生のときに亡くなった。国道3号線がつながった後の昭和15年に箱崎町は福岡市に合併された。




また昭和32年頃、参道脇に福岡水族館が再建されたが、10年間位で閉鎖された。


九大敷地と3号線の間の土地に、戦後競輪場が設けられたが、その廃止に伴い、九大文系の学部の新校舎が建てられ、法学、経済学、文学などの学部が移転した。


文学に残る箱崎街
 
 学生には、文系と理系がいる。学生が地元住人と直接触れるのは文化祭などである。
理系は、見学にきた地元の人に、実験装置や標本を公開して説明してくれた。文系では模擬裁判などをやっていたが、素人には分かりにくかった。
しかし箱崎の姿をはっきりと後世に残してくれたのは文系で学んだ小説家だ。
文学作品のなかで箱崎の街が多くでてくるのは、九大卆ではないが、地元出身の夢野久作の作品である。子孫の杉山満丸氏が、喫茶店「箱崎水族館」の花田夫妻と協力して、その場所の地図や資料を制作されている。

私がしらべた範囲では、九大出身の庄野潤三の作品、地元出身の池田善朗の作品に箱崎と九大学生のことが書かれている。

私の家は湾鉄箱崎宮前の近くの白浜町と埋め立て後の中松町。



赤丸の数字は、下部に説明あり。

 
庄野潤三は芥川賞受賞作家だが、「前途」という学生時代の自伝的小説に、箱崎や博多の街を多くかいている。
上の図の赤丸の説明:
 ①網屋町の停留所近くで、出かけようとしている室と会い、僕は服をかへに帰って、一緒にでた。
 ②けふは青少年学徒の下賜されたる勅語の記念日で、午前七時五十分より運動場にて式があり、あと箱崎宮に参拝しました。
 ③箱崎から電車に乗ると、「切符は僕がだすよ」と、わざと皆に聞こえるように云って、小高が九大新聞に載せた「仏国寺行」の謝礼で貰った回数券を着物の袂から出した。
 ④9月に箱崎白浜町の今の家へ、布団包みと机と大きなトランク1個とともに引っ越した。
 ⑤パリの学生街はラタン区という。ところでわがラタン区は、海岸のさびしい漁師町で、白浜町といふ。
 ⑥珍竹食堂で三人、昼飯を食って、別れて下宿に帰り、昼寝していたら、三時半の小高が呼びに来た。
 ⑦お昼、小高と一緒に東洋軒へいって、ランチを食べた。十一時十五分に並べば、三十分まつけど、ひやひやすることなしに米食に間に合う。
(友人の小高は一年先輩の島尾敏雄がモデル)
上の地図に、赤丸の番号で、その場所を示している。
庄野順三

島尾敏雄


池田善朗は、箱崎生まれの児童文学者で、地元の小学校教師をながく勤めていた方。
 「筑前故地名はなし」のなかで、箱崎の項で詳しくふれている。
 そのなかで、西日本新聞の九大担当記者、鬼頭鎮雄氏の「九大風説記」が詳しい裏話が貴重だとかいているが、わたしは未だ手に入れていない。

九大総長と軍事教練

九大総長の中で有名なのは、初代山川健次郎 と第5代松浦鎮次郎である。
山川は元東大総長・貴族院議員,のち男爵,枢密顧問官で、九工大(明専)の創設にも貢献した。私も安川電機勤務のあと、九工大に勤務したので、山川健次郎については詳しい資料を知ることができた。
松浦は文部次官を経て総長、貴族院議員、文部大臣(米内光政内閣)、枢密顧問官となる。九大は工科大学でスタートしたため4代まで理系の総長で、松浦が最初の文系だった。
山川健次郎総長
松浦鎮次郎総長

山川は会津若松の白虎隊生き残りで、ある程度軍事教練を認めていたが、松浦は当時としてはリベラルな思想の持ち主で, 昭和初期の軍事教練で、九大では軍事講話のみを行い実科教練を課さなかった。私の時代も、座布団爆弾をもって戦車の横から投げ出す方法の講話のみであった。箱崎周辺に軍事施設がなかったのも、影響していたのかもしれない。
有名人の来校としてはアインシュタインなどがいる。

日支事変から日米戦争に突入し、文系の学徒動員がはじまった。前述の島尾や庄野も戦地体験をした作家であり、特に島尾の特攻隊体験は有名である。
百武源吾は、昭和20年3月から10月まで第7代の九大総長をつとた異例の海軍大将である。海兵30期首席卒だったが、開戦反対派だったため海軍では「恐米病者」とみられ、昭和13年から予備役に編入されていたという。


前の第6代荒川文六総長は、電気機器の専門で、息子さんが私と付属小学校で同級生だったが、クリスチャンで戦争非協力者の印象が強かっため、任期満了にあたり、次の総長に本土決戦下の大学で、異例の軍人総長がえらばれたようだ。
この年4月に入学したわたしは、2回ほど総長の訓話を聞いた記憶がある。国民服姿の単身赴任であった。大学近くの箱崎に住んでおられたようだ。
百武源吾総長
軍隊と異なり大学では、総長が研究室を視察して回っても、研究員は知らん顔をしている。そこで教職員用の瀬戸物バッジを作らせ、挙手の礼を実行させようとした。また、学生は将校の候補生だから、軍刀の用意をする必要があると、講話された。これを父親に話したら、早速一刀を購入してきたので驚いた。
西部軍では、協定を破って医学研究者の召集を行っていたので、百武は西部軍と折衝して復学させた。それ以外は、短期間で敗戦となり、研究費や研究資材の増加などの貢献をみることはなかった。
昭和20年4月から、夏休みなしで講義はつづけられた。福岡大空襲のときは、防空隊の当番の日で、大学に駆け付けたが直接被害はなく、屋上から博多の炎上をながめていた。長崎原爆投下のB29も上空を通過し、空襲警報がだされたが、教授は平気で講義を続けていた。
8月9日に長崎に原爆が投下され、11日にその不発弾らしきものが憲兵隊により九大に運びこまれた。電気工学科の入江講師の指導のもと、私もその調査の一員で参加した。原爆の温度や圧力などを計測するラジオゾンデであった。日米の電気技術の差を具体的に知らされた最大の経験であった。

8月15日の敗戦後2ケ月くらいは休講状態で、総長の退任の挨拶もなかった。
戦後の3年間は、食料不足による休校、復員学生の受け入れ、就職難などの困難期であったが、炭鉱エネルギー政策などによる一部の復興で、私は北九州の安川電機に就職し、箱崎を離れた。

九大移転問題

九大の西区元岡地区への移転が、決定されたのは、高橋学長の時代であった。学内では、米軍機の校舎への墜落事件や、板付飛行場へ着陸する飛行機の騒音問題などから、以前から移転希望が出ていた。

かって九大の誘致運動が盛んだった地元住民の、移転反対運動はあまり起こらなかった。百年以上前の強制的な土地収用は忘れられ、地元の議員や区長の了解は簡単に得られたという。箱崎の商店街の経営者の高齢化がすすみ、後継者も不足していて、街の空洞化が始まっていたからだろう。
跡地の利用計画はマスコミで時折論じられているが、何処で正式に議論されるのか、部外者にはさっぱり分からない。私は総合研究博物館になっている本館などの貴重なものは是非残したいと、署名運動に参加したくらいである。

現在の箱崎
九州大学箱崎キャンパスの総合研究博物館にには、鉱物や動物の標本が多く展示されている。






最近の跡地状況は、テレビで断片的に見るくらいの情報しかない。




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