2026年9月2日水曜日

小泉信三


小泉信三といえば、慶應義塾大学の塾長を務め、後に上皇陛下となる皇太子明仁親王の教育に携わった人物として知られている。宮中で求められたのは、学問への深い理解と、人を導くための品格だった。
だが、整ったスーツ姿と理知的な表情の裏には、戦争によって深く傷つけられた身体があった。
東京大空襲の際、小泉は右顔面に大火傷を負った。傷は重く、顔には消えることのない痕が刻まれた。人前に出ることさえためらっても不思議ではないほどの負傷だったが、彼は傷を覆い隠す道を選ばなかった。
火傷の痕を残した顔のまま公の場に立ち、皇居にも通った。端正な知識人として見られていた彼の顔には、自らがくぐり抜けた戦争の記憶が、そのまま刻まれていた。
さらに意外なのは、小泉がかなりのスポーツ好きだったことだ。なかでもボクシングへの思いは強かった。
宮中では理路整然と言葉を選び、若き皇太子に学問や生き方を説く。一方、道場へ行けば若者たちに交じって拳を握り、サンドバッグを打ち込み、時にはスパーリングで汗を流した。
顔には大空襲の傷。身体には闘う人間の熱がある。
皇室から信頼された教育者という姿と、拳を振るう武闘派の素顔。その落差こそ、小泉信三という人物の輪郭を強く浮かび上がらせる。傷を消そうとせず、戦争を経験した自分の顔のまま若者の前に立ち、知性と肉体の両方で生き方を示し続けた。

2026年9月1日火曜日

菊池寛

 文壇の大物・菊池寛には、原稿よりも勝負事に夢中になる、危なっかしいほど豪快な顔があった。

『文藝春秋』を創刊し、芥川賞や直木賞の創設にも関わった菊池寛。後世から見れば、日本文学と出版界に巨大な足跡を残した人物である。ところが私生活に目を向けると、立派な文化人という印象から大きく外れる。彼は勝負事を愛し、人生そのものまで賭け事のように楽しむ男だった。
菊池の気質を物語る言葉として、「ギャンブルは、絶対に使ってはいけない金を使ってからが本当の勝負だ」と伝えられている。余裕のある金で遊ぶ程度では満足できない。追い詰められたところから始まる緊張感に、強く惹かれていたらしい。
熱中ぶりは賭博の席に限らなかった。
お気に入りのカフェの女給を人気投票で一位にしたいと思えば、票を集めるためにビールを150本も注文したという。現代なら熱烈な「推し活」と呼ばれそうな行動だが、やることの規模が桁違いだった。
自ら創業した文藝春秋でも、経営者らしい威厳を保ち続けたとは言い難い。仕事の合間に将棋や卓球へ夢中になり、やがて社員まで遊び始めた。さすがに業務に差し支えると考え、「卓球・将棋禁止令」を出したものの、早々に禁を破ったのが菊池本人だったという。
健康管理でも似た調子だった。糖尿病を患い、医師から米を控えるよう厳しく注意されていた時期、友人にちらし寿司を食べているところを見つかった。問いただされた菊池は平然と、「これは酢で味付けしてあるから米ではない」と返したという。苦しい言い訳なのに、本人は妙に堂々としていた。
自由奔放さは家庭にも波紋を広げた。繰り返す女性関係に妻が耐えかね、離婚を切り出した際、菊池は「60歳になったら必ず真面目になる」と約束して思いとどまってもらったと伝えられている。
文学界では多くの作家を支え、新しい才能が世に出る舞台まで作った男が、家では妻を困らせ、会社では自分で作った規則を自分で破り、医師の忠告には屁理屈で抵抗する。偉大な文化人という肩書きと、子どものように勝負や遊びへ熱中する素顔が、同じ人物の中に同居していた。
だが「60歳になったら真面目になる」という約束の日は訪れなかった。菊池寛は59歳で世を去った。
人生を勝負の連続として駆け抜けた男は、最後まで60歳の自分を見ることがなかった。残された逸話をたどると、文壇を動かした大作家の横で、勝負事を前にすると理屈も立場も忘れてしまう一人の人間が、今も楽しそうに将棋盤へ身を乗り出しているように見えてくる。