2013年2月7日木曜日

蒲生氏郷の命日(2月7日)

 蒲生氏郷は文禄二年(1593)、肥前名護屋の陣中で病にかかりました。一時は快方に向かったものの、ついに2月7日に没しました。
 享年四十歳、あまりに早い勇将の死に、毒殺説がまことしやかに囁かれたと伝えられます。
  とすれば、毒をもられたのは、肥前名護屋の地だったということになるわけです。
 信長の娘を嫁にもちながら、本能寺の変のあと、織田信雄よりも豊臣秀吉についたことで、ねたまれていたためでしょう。
 氏郷は秀吉の下で各地を転戦して活躍、天正十二(1584)年六月には伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)へ転封され十二万石を領します。
 さらに同十八年の小田原攻めの後には会津黒川四十二万石に加増転封、最終的には実質九十二万石、公称百万石の太守となっていました。
 

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