2013年2月6日水曜日

ビルマのインパール戦争(改訂)

東サロンでお世話になった古賀作一さんの戦争体験記をよく聞いた。
九州帝国大学卒業の翌年、昭和15年の入隊から21年まで、ビルマ戦線で戦い、鉄兜に弾をうけ、支援補給をたたれ、捕虜となって収容され、1年後無事帰国できたという。
その戦場での移動地図を、私が整理したのが下の図である。



苦難の青春時代の人生には頭がさがる。
その闘争心が戦後の企業勤務時代にも継続しており、引退後の生活も計画的で、福岡市では当時最長の107歳の天寿を全うされた。
インパール作戦で苦労された話は、何回も拝聴したが、最近のNHKテレビで[ビルマ絶望の戦場」として、その悲惨さがさらに詳しく報道された。

古賀さんの話では、インパールの敵軍基地を完全に包囲したのが失敗で、退路を一か所残しておくべきだったことを強調されていた。
しかしテレビ放送では、その後の英国軍の反撃に対する日本軍の撤退作戦の失敗が、さらに大きな被害になったようだ。

一機にラングーンまで退いて、長期戦に持ち込む計画もあったようだが、現地参謀が途中のイワン川での反撃作戦を行ったため、被害が拡大した。

また本国の参謀本部が、第二師団を南方軍に転戦させる指令を出したため、さらに混乱がおきて、絶望的戦場となった。
古賀さんの部隊は、有名な辻参謀(一時国会議員になっていた)の配下だったが、明日迎えにくると言い残して、自動車で逃げ出し、現地に取り残されて、ジャングルの中を退却中に捕虜となったということだった。

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