関ヶ原の際に石田三成を捕らえたことで知られる筑後柳川城主・田中吉政が伏見で病没したのが1609年2月18日。享年62歳。
田中吉政は高島郡の農民の子で、豊臣秀吉とよく似た境遇でした。吉政は初め浅井長政麾下の宮部継潤に仕え、後に羽柴秀吉に引き抜かれ羽柴秀次の与力となり、次第に頭角をあらわして三万石を領するまでになりました。
吉政は九月十八日に家康から三成の探索を命じられましたが、探索を開始して間もなく三成が古橋村にいる旨の連絡が入りました。三成と仲が良かった吉政は、三成の顔を知っている家臣の田中傳左衛門(長吉)を古橋村に派遣します。三成本人と確認した傳左衛門は二十一日、身柄を丁重に吉政のもとへと護送しました。三成は悪びれた様子はなく、形見の品として正宗の脇差しを吉政に与えました。吉政も三成と以前の如く接し、腹を下していた彼のために韮雑炊を振る舞ったということです。
吉政はこの功が認められて筑後柳川城(福岡県柳川市)三十二万石の主となり、2月18日に伏見で六十二歳の生涯を終えました。彼の墓は柳川市の真勝寺にありますが、本堂の真下にあるという珍しいもので、寺では本堂自体を吉政の墓としています。
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