私が生前の藤田博士から九工大で直接きいた話では、広島原爆の被害調査も直後に行っておられたよだだから、両方の史料があるはずだ。あわせて紹介してもらいたかった。
その後渡米され、気象学者として大成され、航空機事故原因についてダウンバーストを提唱されたことは有名だ。
九工大の前身の明治専門卒業時の同期生には、同じ気象学の分野にすすんだ石黒さんがいる。彼はイギリスで仕事をしたが、息子さんがノーベル賞作家になって、有名になった。
長崎のラジオゾンデ(落下傘付き爆圧等計測器)
戦後75年。被爆者の高齢化によって語られることが減少しつつある体験談。
ご本人が語る、文字が呼びかける 当時の証言。
原子爆弾搭載機「ボックス・カー Bockscar」が爆弾投下直後から爆発までの間に、後方の科学・気象観測機グレートアーティストによって爆発の威力・爆圧・高度・熱力等を計測する3個のラジオゾンデ(radiosonde)が投下されました。
これらのラジオゾンデは、原爆が地上約500mで炸裂した後、爆心地の上空約4000mの高さから東側に流れ、正午頃に北高来郡戸石村に落下しました(といし 爆心地から11.6km、現在の長崎市川内町、長崎原爆戦誌には午前11時半から正午ごろの間に落下したとされている)。
もう2個は、北高来郡田結村木場名補伽(ほとぎ 爆心地から12.5km、現在の諫早市飯盛町)、北高来郡江ノ浦村嵩(だけ 爆心地から13.3km、現在の諫早市飯盛町)に落下しました。この三地点は爆心地からほぼ一直線に並んでいます。
江ノ浦村嵩で当時6歳だった野田さんは「そりゃあ、怖かったよ。不気味な円筒をぶら下げて上がったり下がったりしながら、こっちに近づいてくるんだから」と。
落下傘は野田さんの自宅の上を通り過ぎ、近くのシイの木に引っかかりました。集落は大騒ぎになり、筒のなかに米兵が隠れていると思った住民たちは、鎌や日本刀を手に取り囲みました。爆発するかもしれないと、野田さんら子どもやお年寄りは、近くの民家に避難したといいます。
※2005年8月9日 朝日新聞 朝刊に掲載された記事の抜粋。
広島・長崎の記憶 被爆者からのメッセージ
【 太陽が爆発したのか 再現、ナガサキ8・9「被爆60年アンケート」からの抜粋 】
【 落下傘に円筒形の物体 きらきらと輝く、それは爆圧計測装置 】
午前11時ごろ、気温29.5度。長崎市大橋町にある三菱兵器大橋工場の動員学徒、笠松久さん(女性)は、サツマイモの昼食の前に工場の外で手を洗っていた。
空襲警報が鳴るなか、上空に飛行機が飛来した。音もなく落とされた白い物が、パッと開いた。「円筒形の物がぶら下がり、太陽の光を受けてきらきら輝いていた」。落下傘だ。「友達にも見せなくちゃ」。笠松さんは工場に駆け出していった。
國民學校教師の平山さん(女性)も海岸で落下傘を見た。海水浴を楽しむ教え子が「飛行機だ」と叫んだ。白い物が落ちてくる。金属製らしき物体が付いているように見えた。
その正体は爆圧計測器「ラジオゾンデ」。計3機あり、原爆の爆圧、熱力などの数値をグアム島の基地に送る。米軍が「投下成功」を確認するための装置だった。
「日本の飛行士さんが落下訓練をしてるよ。頑張ってるね」。平山さんが言い終わらないうち、鋭い光線が走った。
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