長州藩には相州三浦半島の防備が命じられ、藩では幕府の許可を得て、江戸の葛飾別邸で鋳造所をつくり、萩から鋳物師の郡司右平次をよび、佐久間象山の指導をうけながら、砲身3mの18ポンド砲38門を鋳造した。
砲身には毛利家の家紋や製造場所、1854(安政)の年号などが鋳込まれており、その後の変遷が明確にわかる。
三浦半島の防備は4年半で解かれたが、攘夷論の強い長州藩はこの大砲を下関へ運んで、1863年から関門海峡を通過する外国船の砲撃に使用した。
関門海峡には、それ以前に鋳造したものや、外国から輸入したものなど、あわせて70門(109門説もある)が設置されていた。
しかし1884年8月、長州藩は英・仏・蘭・米4ヶ国連合艦隊17隻の襲来で大敗し、長州の攘夷戦は終結した。
この時下関海岸に装備されていた長州砲は、すべて戦利品として外国に運びさられた。
この大敗を、明治以後の日本政府は公にせず、第2次大戦の敗戦後にやっと広く知られるようになった。
下関に上陸した外国兵 |
アンヴィリッド博物館の大砲展示 |
この機会に地元のロータリークラブなどの記念事業として、原寸大や2/3サイズの精密レプリカがつくられた。
現在、江戸葛飾別邸製造のものは、レプリカが江東区南砂緑公園に、そして1843(天保)年製造のものは、実物が下関市長府博物館に、レプリカは下関みもすそ川公園(壇ノ浦砲台)に展示されている。
江東区南砂緑公園のレプリカ砲 |
天保製の説明板 |
壇ノ浦砲台の天保製レプリカの展示 |
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