2015年6月16日火曜日

フランス帰りの長州砲

 1853年ペリー来航に動揺した幕府は、諸藩に海岸警備を命じる。
長州藩には相州三浦半島の防備が命じられ、藩では幕府の許可を得て、江戸の葛飾別邸で鋳造所をつくり、萩から鋳物師の郡司右平次をよび、佐久間象山の指導をうけながら、砲身3mの18ポンド砲38門を鋳造した。
砲身には毛利家の家紋や製造場所、1854(安政)の年号などが鋳込まれており、その後の変遷が明確にわかる。
三浦半島の防備は4年半で解かれたが、攘夷論の強い長州藩はこの大砲を下関へ運んで、1863年から関門海峡を通過する外国船の砲撃に使用した。
関門海峡には、それ以前に鋳造したものや、外国から輸入したものなど、あわせて70門(109門説もある)が設置されていた。
しかし1884年8月、長州藩は英・仏・蘭・米4ヶ国連合艦隊17隻の襲来で大敗し、長州の攘夷戦は終結した。
この時下関海岸に装備されていた長州砲は、すべて戦利品として外国に運びさられた。
この大敗を、明治以後の日本政府は公にせず、第2次大戦の敗戦後にやっと広く知られるようになった。
下関に上陸した外国兵
1966年春、渡欧中の作家古川薫氏(下関出身)が、フランス・パリのアンヴィリッド博物館で展示されている約600門の大砲の中から、この長州砲を三門発見した。ニ門は江戸の葛飾別邸で鋳造されたもので、一門は1843年(天保)に鋳造されたものであった。
アンヴィリッド博物館の大砲展示

彼はその後永い年月をかけて調査し、イギリス(ロンドン王立大砲博物館)、オランダ(アムステルダム国立博物館)やアメリカ(ワシントン海軍基地)でも保管されている長州砲を発見している。  オランダで保管の砲身は、毛利家紋の銀象嵌が鋳込まれている部分25cmだけを切断して残されていた。


以来この長州砲の返還運動が進められ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎(安倍晋三総理の父)などの努力で、フランスから1984年に貸与の形式で里帰りが実現した。
この機会に地元のロータリークラブなどの記念事業として、原寸大や2/3サイズの精密レプリカがつくられた。
現在、江戸葛飾別邸製造のものは、レプリカが江東区南砂緑公園に、そして1843(天保)年製造のものは、実物が下関市長府博物館に、レプリカは下関みもすそ川公園(壇ノ浦砲台)に展示されている。
江東区南砂緑公園のレプリカ砲


天保製の説明板

壇ノ浦砲台の天保製レプリカの展示
その他英国で保管のものも、一時帰国して、萩市で展示されたこともあったが、期間限定であった。

当時の長州砲の主力だったのは、加農砲(カノン砲)で、青銅製の砲筒と球形の弾丸の組み合わせであった。場所は前述のように、萩藩郡司家、長府藩安尾家、一部は江戸の葛飾控え屋敷などで鋳造された。

しかし外国艦隊の主砲は、すでに鉄製の大砲で、筒型の砲弾と組み合わせたものになり、飛距離も2倍以上で、命中率も向上していたので、交戦の結果は惨め敗戦となった。
筒状と球状の砲弾

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