2015年6月21日日曜日

箱崎八幡宮の海岸の埋め立て

神功皇后や応神天皇にゆかりのある箱崎八幡宮。
その参道の先端は博多湾に面し、はるか新羅国の方をめっざしている。
古くは元寇の襲来で有名で、亀山上皇の「敵国降伏」の書が、神社の楼門に掲げてある。
豊臣秀吉が,2回もこの海辺で茶会などを開いたことも有名だ。
江戸、明治初期までは情緒がたもたれていたが、大正、昭和と時代がすすむにつれて民間企業や市当局の埋め立てが行われ、今は浜辺に国道、高速道路が走り、昔の情緒は失われてしまった。
わたしの小学校入学前は抱洋閣の廃屋がカクレンボの遊び場所だったし、小学校3~4年の頃に国道3号線の埋立てがはじまった。海軍記念日には、海岸で盛大な花火大会が行われていた。
博多港の埋立て工事のはじまりは、大正初期で、博多湾築港(株)が資本金300万円で設立されたときであった。
この時の3万株(百円株)の株主は次の通り。
15000株 中村精七郎(現山九の創設者): 
 4000株 杉山茂丸(玄洋社): 
 1500株 中村定三郎(精七郎の兄)、佐藤平太郎:
残り8000株16名(各500株)
葦津、進藤、奥村、大野、太田、野村、谷、鶴田,深見、遠藤、
河内、吉見、深沢、下沢、古賀、大田
(博多学の歴史にのこる人物の名前がならんでいる。)
昔の画像や、地図、資料などをならべて、昔の情緒を思い出してみよう。
M43の地図
当時の埋立て計画地図
現在の箱崎海岸
大正初期の埋立て祈願式
埋立て祈願基石に「神護」・杉山茂丸の文字
大正初期杉山茂丸の埋立て申請書
大正初期の海岸線図






博多湾の古代・現在の海岸線(緑色は古代の海)

左下に箱崎八幡宮(中世の博多地図)




多々良川から石堂川までの埋め立て計画図「1期、2期」と埋め立て作業の進行図、および3号線の開通式当時の写真。
最初は中央2車線のみ舗装で、現状とは大きな差である。



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