2015年6月17日水曜日

6・19福岡大空襲の記憶

昭和20年6月19日夜から20日の朝方まで、福岡の空は赤々と火炎につつまれた。
当時九州帝国大学の学生で、当日は防火班の当番だったわたしは、大学にかけつけた。
工学部の学生で、10名くらい集まっていた。当番教授も一人おられて、この人数では、消火活動などできないから、どこから焼け始めたかの記録でもしてくれという指示をされ、高射砲の破片などが危険だから、防空壕にはいるようにいわれた。
高射砲攻撃もおさまったあと、工学部の屋上にのぼり、遥か博多の町の空の真っ赤な火炎の波をながめた。
暴君ネロが街をやいて喜んだという話を何故か思い出した。
このときの空の印象は、上図の平山郁夫画伯の原爆の図にそっくりであった。
大学の北側の箱崎でも一箇所火炎があがっていて、あとで大林・竹中組の大きな倉庫が消失したと知った。
わたしの家もその近くで、数発の焼夷弾が庭に落ちたが、小さな倉庫が焼けただけですんだ。


これら東区の被害は、戦災地域図には記載されていない。このような部分的被害は、ほかにもいくつかあったようだ。
20日の早朝から、被災の中心部から東部の郊外に3号線を避難してゆく被災者の行列が、たえまなく続いた。学生有志で、その行列の荷物運びの一部を支援活動をした。
すでに東京や大阪などの大都市での惨状を耳にしていたので、ついに福岡までその時がやってきたかと、日本の敗戦を実感した日であった。
中州周辺の焼けあと

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