2015年10月30日金曜日

東行庵の総括

高杉晋作は、死んで赤間関(下関)の鎮守となると誓っていたが、下関街の大半は長府領・清末領であり、適当な埋葬場所がなかった。
萩本藩でもっとも下関に近い場所が吉田で、奇兵隊の本陣が置かれたところだった。その清水山の麓に山縣有朋が新婚生活を営んだ無鄰庵という小さな家があった。
これが晋作の愛人うのに譲られ東行庵となる。うのは剃髪して梅処と号し、明治42年に亡くなるまで晋作の菩提を弔い続けた。
山縣や伊藤ら晋作ゆかりの人々の寄付集めで、晋作、参謀福田、愛人うのの墓や建物、銅像、顕彰碑などが建立されて、境内が整備されてきた。東行庵の石碑の文字は毛利公の書という。









3代庵主のころには、奇兵隊や諸隊の兵士の墓130基ほどをあつめた顕彰墓地ができ、さらに反乱で処刑された兵士の墓も追加された。
この場所の高台には大きな聖観音石像が立っている。
 「おもしろき こともなき世を おもしろく
    ふきかえしたる 東行春風」

高杉晋作の東行庵に山県有朋の銅像がある。何故だろうと思ってしらべた。
この清水山麓には、もともと奇兵隊陸軍監山縣狂介が新婚生活を営んでいた小さな家があった場所で、それを晋作の愛人うのに譲って東行庵となったそうだ。

山県の銅像



東行庵建立寄付者のなかでも、毛利公55円についで、50円組4人のトップに山県が名前を書き、あと井上、山田、伊藤とならんでいる。
また、東行庵にある晋作の顕彰碑は大きいが、墓は予想していたより小柄な墓であった。
明治42年ごろにできたものだが、一緒に建てられる奇兵隊参謀の福田公明(侠平)の墓が先にできた。完成を待ち望んでいた梅処尼は「旦那のがまだ来ない」と言いながら、ついに墓石をみずに67歳で亡くなったという。彼女の墓も近くに建てられている。
宿理 英彦、新田 昌彰、他3人

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