福岡県立の旧制福岡中学校(現在の福岡高等学校)は大正6年(1917)に創設されたということになっている。
同窓会名簿も、第1回卒業生は大正11年3月卒業からはじまっている。
しかし明治維新直後の混乱期の歴史をよく調べてみると、明治12年から22年までの10年期間、県立福岡中学校が存在していたことがわかる。
明治3年(1870年)福岡藩が太政官札を偽造してそれが日田県内に流通していると告発があり、その後の明治政府の調査の結果、福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。
このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代黒田長知は藩知事を解任され、後任の藩知事には有栖川宮熾仁親王が就任した。その後、廃藩置県により福岡県となり、さらに豊津県、久留米県、柳川県が福岡県に吸収合併された。
かっての藩校は、明治7年から11年までは臨時的措置で各種学校として復活存続されたのち、正式の福岡県立中学としては明治12年から新規に発足した。
1879年(明治12年)育徳館: 県立となり豊津中学校と改称する(小倉分校を設置)。
1882年(明治15年)思永館: 県立豊津中学校小倉分校を「小倉中学校」と改称。
1879年(明治12年) 明善館: 久留米師範学校を廃止。県立久留米中学校設置。
1879年(明治12年) 伝習館: 福岡縣立柳河中學校設立。
ただし地元福岡の藩校修猷館は黒田色を追放するためか廃校となり、建物は診療所として利用された。
そして育徳・思永・明善・伝習館と同じ明治12年に、県立福岡中学校が別途に創設された。場所は福岡城、下の橋の前でした。(現在の電通福岡ビル付近)
明治13年の福岡市地図には、福岡城三之丸の橋の前に、中学校と師範校が並んで記載されている。この地図の面積からみると、当時の学校の規模は藩校の延長程度で、百名以下だったろうと推察される。
明治13年の県議会で、主要都市部の上記の五中学校のほかに郡部に十三校の中学分校を設置することになり、各郡部の上等小学校を中学分校とした。福岡中学の分校は箱崎小学校におかれた。しかしこれらは明治15年には悉く廃止され、郡立経史校となり、漢学などを教えたという。
明治23年の地図では、同じ場所が中学修猷館に変わっている。
明治12年福岡市地図の中学校
これは、もと黒田藩士の金子堅太郎や玄洋社グループなどの有力者らが修猷館復興運動をおこし、紆余曲折をへて明治19年についに復興に漕ぎ着ける。
金子堅太郎 |
しかもその後県の財政が悪化したために、福岡地区で2校の存続が不可能となり、福岡中学のほうを明治22年に廃校としたからである。
当時の事業仕分け人は不明だが、当時の県知事は玄洋社の杉山と親交のあった安場保和(熊本細川藩出身)であった。
昨年は1879年から130年の開校記念行事が、育徳、思永、明善、伝習などの旧藩校系の高校で行われたが、福岡高校は100周年を7年後に迎えるような後発高校になっている。
しかし明治12~22年の間の卒業生の記録は残っているいるので、小林前同窓会長の話では100周年記念の時には整理して出版する計画が進んでいるようだ。
この間の卒業生の中の有名人としては、明治専門学校の創設者の一人松本健次郎氏(安川敬一郎次男)が明治22年の卒業生であり、その邸宅は現在北九州市戸畑区の西日本工業倶楽部として現存しており、市の文化財に指定されている。
松本健次郎 |
また川上音二郎も入学していたが、継母とのおりあいが悪く、中途で家出して上京している。
川上音次郎 |
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