2015年10月14日水曜日

尾張・愛知・名古屋の地名

戦国時代に3人の天下人を生んだ愛知県だが、名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋にあったというように、尾張・愛知・名古屋の地名が錯綜している。

地名辞典などによると、最も古い地名は尾張で、「尾張」の発音が「終わり」と重なる点からもわかるように、ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされて、呼ばれたのが尾張であるという。
また『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如しという。
さらに江戸時代に尾張藩が編纂した『張州府史』によれば、小針(おばり)村は、古くは尾張村であって、尾張の名称は、この地から起こったとしている。

つぎに[愛知]の名前は、日本書紀に「年魚市」・「吾湯市」や「鮎市」、「和名抄」は尾張国「愛智」郡に「あいち」と訓を付しているが、古くは「あゆち」と発音されていた。
万葉集巻3に飛鳥期の歌人・高市黒人の詠んだ羇旅歌の
「作良田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」
とある「年魚市(あゆち)潟」という、伊勢湾に面する愛知郡の沿岸部に位置する低湿地帯の地名がある。現在も昭和区に「阿由知通り」の名に(あゆち)の響きが遺されている。
「あゆ」は、湧き出る意で湧水の多いところとする説、東風を「あゆ」と訓むところからめでたいものをもたらす風の意とする説などがある。また、日本武尊の東征の出発点、「足結地(あゆち)」とする伝承もあるという。
明治2年に尾張藩が名古屋県に改称されたが、さらに明治5年4月2日に明治政府が名古屋県を愛知県に改称した。
その背景には、戊辰の役の際の尾張国の動向を、明治政府は好ましく思っておらず、懲罰的な意味合いを含み「名古屋県」の県名を認めず「愛知県」に改称させたという説がある。

「名古屋」の地名は平安末期に小野法印顕恵(九条〈藤原)顕頼の男子)が領主となって開発、立荘した荘園「那古野荘」による。
現在でも名古屋市西区の中区に接する堀川西岸に「那古野」の地名が残っている。
「ナゴヤ」の由来には、気候や風土が“なごやか”な土地とする説、土地が崩れて崖になった場所を「なご」と言い、「や」は谷で、谷間にある湿地とする説、なごやかな地形=「なだらか」という連想から、なだらかな傾斜のある地形とする説などがある。

名古屋城は、名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」、「蓬左城」などの異名を持っている。
金の鯱矛で有名でわかりやすいが、「蓬左城」は熱田宮との位置関係から名付けられた。

熱田の地は古来から「蓬莱島」と呼ばれている。
その由来は、波静かな年魚市潟(あゆちがた)に面し、老松古杉の生い茂る熱田の杜が、海に突き出る岬のように見える事から、不老不死の神仙の住む蓬莱島(中国の伝説)に擬せられたからであろうといわれている。
また(あゆち)に「吾湯市」と漢字を当てた地名もあり、「あゆち田」が「あつた」と変化し、「熱田」となったという説もある。
かって尾張国造の尾張氏の本拠地が熱田神宮に近い断夫山古墳(美夜受比女の墓と言われる)付近に比定されていることから、愛知郡の中心的場所として「あゆち」を由来とする地名が中区に南接する熱田区域に存在した。

江戸や東京などよりは、地名が豊かで、天下人も多くうまれた歴史多き地域である。

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