2016年1月21日木曜日

真田家の妻達

真田昌幸の妻は宇多頼忠の娘で、石田三成と義兄弟:
宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代武将大名。通称は下野守。
頼忠は引佐郡に当主として残り、のちに武田氏に臣従した。また、永禄7年(1564年)頃には、政略結婚のため武田氏家臣・真田昌幸に長女を嫁がせ、忠誠を誓ったと考えられる。
ところが長篠の戦いで武田氏が遠江国で勢力を失うと、頼忠は所領を捨てて兄・知宣を頼って近江国長浜城へ赴き、その紹介で羽柴秀長の家臣となった。 秀吉や秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が100万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ1万3,000石を領する重臣となっていた。
石田三成に次女皎月院を嫁がせたのは本能寺の変の前と推定されている。
慶長5年(1600年)9月17日、関ヶ原の戦いの後、三成の居城であった近江佐和山城は東軍に攻撃され、頼忠は息子の頼重、三成の父・正継、三成の兄・正澄らと共に自害した。
(真田昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されることになったが、山手殿は信之に引き取られ、上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改める)
真田信之の妻は本多忠勝の娘:
真田昌幸は一時的に家康に臣従して上杉軍と交戦するも、天正13年(1585年)には、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡る家康からの要求を拒絶し、再び上杉氏に臣従する。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。
信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献した。
その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた[2]
一説によると、井伊直政が信幸の戦場での活躍を聞き、それを徳川家中に話した事が婚姻の経緯だと言われている。
真田信繁の妻は大谷吉継の娘:
大谷吉継の妻の情報は不明とされているが、その娘(妹、姪を養女としたという説もある)が真田信繁の正室であるという。しかし学説として信頼できる史料は無いらしい。
関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り、大坂の役で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送り、慶安2年(1649年)に死去した。
信繁の子のうち幸昌守信、あくり、阿昌蒲、おかねが子とされている
なお、信繁の妻の名前は史料では確認されておらず、死後の法名・竹林院という号しか解っていない

以上のような婚姻関係が、関ヶ原の戦で一家を東西に分離させたとすれば、女性の力の強さが証明されたことになる。

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