宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将、大名。通称は下野守。
頼忠は引佐郡に当主として残り、のちに武田氏に臣従した。また、永禄7年(1564年)頃には、政略結婚のため武田氏家臣・真田昌幸に長女を嫁がせ、忠誠を誓ったと考えられる。
ところが長篠の戦いで武田氏が遠江国で勢力を失うと、頼忠は所領を捨てて兄・知宣を頼って近江国長浜城へ赴き、その紹介で羽柴秀長の家臣となった。 秀吉や秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が100万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ1万3,000石を領する重臣となっていた。
石田三成に次女皎月院を嫁がせたのは本能寺の変の前と推定されている。
石田三成に次女皎月院を嫁がせたのは本能寺の変の前と推定されている。
真田信之の妻は本多忠勝の娘:
真田昌幸は一時的に家康に臣従して上杉軍と交戦するも、天正13年(1585年)には、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡る家康からの要求を拒絶し、再び上杉氏に臣従する。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。
信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献した。
その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた[2]。
一説によると、井伊直政が信幸の戦場での活躍を聞き、それを徳川家中に話した事が婚姻の経緯だと言われている。
真田信繁の妻は大谷吉継の娘:
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