2016年10月6日木曜日

高齢と障害は 「社会のお荷物」?


(2016年9月28日 「雨宮処凛がゆく!」より転載)


「文學界」10月号で精神科医の斎藤環氏と対談した石原慎太郎氏は、「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味でわかるんですよ」などと発言。

また、知的障害の息子を持つ大江健三郎氏に対し、「大江なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさんを持ったことが、深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」との発言もしているのだという。

文學界を読んでみると、確かにそんな発言もしているのだが、それ以上に私には大きな驚きがあった。

対談の中で斎藤環氏も「この対談は、読者にとってかなり衝撃的なものになると思います」と言っている。

「石原さんが生と死の間で葛藤しているとか、自分の衰弱に苦しんでいる、悩んでいるというようなことがあるとは誰も思っていないでしょうから」

その言葉通り、対談では、石原氏が「老い」や病(脳梗塞)に直面し、そんな自分を受け入れられずに戸惑いまくっている様子が率直に語られているのだ。

脳梗塞で海馬がダメージを受け、字を忘れたという話になると「斎藤さん、どうしたらいいんですか。こういう日々っていうのは」と尋ね、「自分で自分にイライラする感じ」「自分でこのごろ鏡に向かって言うんだ。『おまえ、もう駄目だな』って」と葛藤を吐露。

既に亡くなった人の名前を出しては「あの先生が生きていたら、すがって相談して迷妄を解いてもらえたと思うんだけど、そういう人が今、いないんだよな」と嘆き、また「いや、若者のつもりで居ても、日に日に老いさらばえていくとね。本当に超越者みたいな人が居たら、すがれたらすがりたいんだけどね」と思いを語る。

そうして対談の最後には斎藤氏に、「今日はお話しできて少しは気が楽になったような気がします。ありがとうございました」

私は心の底から驚いた。あの石原慎太郎が弱音を吐いている、しかも「すがりたい」とか助けを求めてる! そして「ありがとうございました」って、お礼を言ってる! なんかもう、完全に精神科医・斎藤環の「患者」になってる! と。

しかし、「高齢者」「病者」という弱者性を抱え、まさにそんなテーマを語りながらも、同じ対談で障害者差別発言をする彼の存在が、私の中でますますわからなくなった。普通、自分も弱さを抱えれば、種類は違っても「弱さ」を持つ人への共感の気持ちが生まれるのでは? と。

そんな私の疑問に鮮やかに答えてくれたのは、「相模原障害者殺傷事件」を丸ごと一冊特集した「現代思想」10月号に掲載された上野千鶴子氏の「障害と高齢の狭間から」だ。

文章の冒頭では、相模原の事件後、同市で開催された在宅医療を巡るシンポジウムで、「相模原事件を取り上げましょうか」とコーディネーターに言われたものの、上野氏が「ここに来る聴衆には、関心がないと思う」と答えるエピソードから始まる。以下、引用だ。

「なぜか? わたしには理由がわかる。高齢者は自分を障害者とは思っていないからだ。それどころか、障害者と自分を区別して、一緒にしないでくれ、と思っているからだ。脳血管障害の後遺症が固定して、周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても、それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である。

なぜか? その理由もわかっている。高齢者自身が、そうでなかったときに、障害者差別をしてきたからだ。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだ。

だからこそ、上野氏は講演で「齢(よわい)を重ねる」とは「弱いを重ねる」ことだと強調しているという。

「超高齢化社会とは、どんな強者も強者のままでは死ねない、弱者になっていく社会であること。すなわち、誰もが身体的・精神的・知的な意味で、中途障害者になる社会だと。

脳梗塞で半身マヒの後遺障害が残れば、車椅子生活にもなるし、言語障害も残る。認知症になれば、一種の知的障害と言っていいし、レビー小体型の認知症なら幻覚・妄想などの精神障害も起きる。いくらそう伝えても、いま健康な聴衆には将来への不安を与えるのみで、それなら、と認知症予防や健康寿命の延長のための体操教室がはやるばかりだ。(中略)

いついかなるときに、自分が弱者にならないとも限らない。弱者になれば、他人のお世話を受ける必要も出てくる。そのための介護保険である。それだからこそ弱者にならないように個人的な努力をするより、弱者になっても安心して生きられる社会を、とわたしは訴えてきたのだ」

しかし、多くの人が弱者になった自分を受け入れられない。講演会のあとの懇親会で、上野氏は初老の男性にこう言われたことがあるという。

「脳梗塞で倒れたあと、必死でリハビリをしてようやくここまで来ました。あの時、家族が救急車を呼ばずにいてくれたら、と何度恨んだかしれません」

障害者になった自分を受け入れられない。「役に立ってこそ男」という考えから抜けられない。「社会のお荷物」になる自分を受け入れられない。このような「高齢者の自己否定感」が、老後問題の最大の課題だと上野氏は指摘する。

石原氏も、今までの「強者」の思想と現在の自分との落差に愕然としているのだろう。

その背景にあるのは、生産性が高く、効率が良く、その上費用対効果がいいものでないと価値がないとする考え方だろう。すべてが数値化され、どれくらい経済効果が得られるかのみに換算される社会。そんな価値観は、結果的には「弱さ」を抱えた自分自身に牙を剥く。石原氏の苛立ちや葛藤は、そのような効率原理から抜け出せない限り、終わらない。そしてそれは今、多くの高齢者を苦しめているものだろう。

さて、そんなジレンマを「迷惑」というキーワードから論じているのは大澤真幸氏だ。同じ号の「現代思想」で、氏は「この不安をどうしたら取り除くことができるのか」という原稿を書いている。読んでいて、ハッとさせられた。

「たとえば、私たちは、できるだけ多くの人ができるだけたくさん幸福であることがよい、と考えている。言い換えれば、不幸や不快ができるだけ少なく、小さくなることがよい、と。これには、ほとんどの人が賛同するだろう。このアイデアを、倫理学的な原理にまで高めたものを、功利主義と言う。

だが、功利主義は危険な思想である。功利主義に基づくと、他人に多くの快楽や幸福をもたらす人の生は重んじられ、逆に、他人に苦労を要求せざるを得ない弱者の生は軽いものになってしまうからだ。その弱者には、障害者や老人が含まれる。すると、気づかぬうちに、私たちはUの主張のすぐ近くに来てしまう」(Uとは、植松容疑者のこと)

「素朴な功利主義と同じことだが、もっと単純に、ほとんどの人が、こう思っているし、こう言って子どもたちを教育しているのではないか。『他人に迷惑をかけてはいけないよ』と。確かに、これは文句のつけようがない道徳的な項目だ。

しかし、今見てきたように、これには、なおどこか落とし穴のようなものがあるのだ。その合意をどんどん拡張していくと、まったく賛成できない主張(Uの主張)にたどり着いてしまうのだから。それゆえ、こう問わないといけない。ほんとうに、迷惑をかけることは何もかもいけないことなのか」

相模原事件が私の心を離れないのは、彼の主張と現実の社会が奇妙に符合していることによるのかもしれないと。ネット上の悪意に満ちた言説を突き詰め、学校で教えられるタテマエを突き詰め、経済原理ばかりを追求して財源論で命を値切るような社会の空気を突き詰めた場合の最悪の「解」のような。

一方、事件後から容疑者の措置入院解除が問題視されているが、同誌で斎藤環氏は以下のように書いている。

「しかしこの議論の行き着くところは必然的に『予防拘禁』の肯定である。精神障害者は再犯の怖れが完璧になくなるまで隔離せよという主張は、『障害者に生きる価値はない』とする植松容疑者の主張とほとんど重なり合う」

同誌には、ここに紹介した以外にも、当事者や障害者団体による非常に興味深い考察が多く掲載されている。

同誌でもっとも心に残ったのは、DPI日本会議の尾上浩二氏の原稿に出てきた言葉だ。それは、以下のようなものである。

「殺されてよい命、死んでよかったというような命はない」

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