観応の擾乱
あまり知られていない乱であるが、昨日のテレビ番組で詳しく紹介された。九州にいた足利直冬の事件は知っていたが、その背景がよく理解できた。
当事者1:足利直義(尊氏の弟)
当事者2:高師直(尊氏の軍師)
当事者3:足利尊氏
当事者4:足利直冬(尊氏の子ながら直義の養子)
時代:南北朝時代
年代:1348年(貞和4年)~1352年(文和1年)
観応は1350,1351年 年号は南朝
要約:足利幕府創建の元勲、足利直義と高師直の対立。それを傍観しているようにしか見えない足利尊氏。結局漁夫の利で尊氏の勝ち。
観応は1350,1351年 年号は南朝
内容: 時代背景
足利直義と高師直は、色々な面でまことに対照的な人物であった。例えば、直義は穏健派で前代の鎌倉的秩序を再建することにより治安を安定させようとしたのに対し、師直は旧来の権威というものをことごとく軽視する急進派(いわゆる婆娑羅)で、旧権威の破壊の先に新秩序を求めようとしていた。
この基本的な違いに加え、両者の立脚する政治的地位が又、おのずと対立を引き起こさざるを得ない媒体となっていた。
師直、将軍である足利尊氏の執事である。従って尊氏の命令は全て師直を経由することになっており、その意味で師直は強大な権限を掌握できる筈であった。ところが尊氏は政権を樹立すると早々に政治向きの一切を直義に譲ってしまい、師直の思惑は当てが外れてしまった。師直としては当然面白くない。その上師直は、その急進的政治観を支持する多くのシンパがいた。そこで師直は、どうにかして幕政の主導権を我が手にしようと機を窺っていた。
一方、そんな師直の存在は、無論直義にとって目障りで仕方がない。そこで、悉く師直の動きを封じようとする。要するに直義と師直はお互いにこれ以上ない邪魔者同士であり、その確執が時の経過につれて深刻になり、幕政を二分する大事件へと発展していったのである。
高師直のクーデター
両者の不和対立は、既に1342年(康永元年)頃には南朝方にも知れ渡っていたようである。だが、その対立が双方の実力行使として火を噴いたのは、1349年(貞和5年)を迎えてからのことである。
まず先制攻撃に出たのは直義の方である。1349年(貞和5年)閏6月3日、直義は尊氏に要求して師直の執事職を罷免させる。対して師直8月9日に弟の高師泰を河内国から呼び寄せ、8月13日武力クーデターに打って出る。直義は尊氏の邸に逃げ込んで難を避けたが、師直の要求は厳しく、翌14日には師直は上杉重能・畠山直宗の身柄を要求する。尊氏もその要求をのみ15日重能・直宗を越前国に配流を決定した。師直はそれだけでは満足せず遂に直義の幕府内の地位は尊氏の嫡子足利義詮に譲らねばならなくなった。
だが直義も負けてはいない。1350年(観応元年)10月16日、直義の子息の足利直冬が九州で挙兵。続いて10月26日直義は不和の尊氏と決別し、この日京都を逃れて大和国に赴き、南朝と和を結んで師直と対抗するという離れ業に踏み切った。直義にも味方が多かったので、こうして直義が決起すると、各地の直義党が馳せ参じ、忽ち大勢力に膨れ上がった。
高師直の最後
以後、直義と師直(&足利尊氏)は、数度に渡って鉾を交えたが、最後の勝利を握ったのは直義の方であった。1351年(観応2年)2月17日、直義は摂津国打出浜で師直・尊氏連合軍を敗ったのである。2月20日和議が整った。和議の条件は、師直が出家するかわりに、その生命を助けるというものであった。そこで翌21日、師直・師泰は出家した。しかしここまで事態が進んだ以上その約束が守られる筈もなかった。昨日までの権勢もどこえやら、師直が頭を丸めてトボトドと京へ向かって歩いていたが、その途中の2月26日、先のクーデターで父を殺された上杉能憲の手の者に襲われ、あえない最期を遂げた。
足利直義の毒殺
幕府内の対立抗争は、高師直の死により一応解決したかのように見えた。しかし実は、既にこの時尊氏と直義の仲も険悪化しており、1351年(観応2年)7月19日直義は義詮との不和を理由に政務を放棄。8月1日には直義は京都を出奔した事により、両者の対立は決定的な段階を迎える。
直義は京都を出た後、味方の多い北陸に向かい、一時は尊氏方を遙かに上回る勢力を築いた。これに対し尊氏は使者を遣わして和議を申し入れ、又、先に直義が行ったのと同様に南朝と和を講じるという非常手段をとったりして、頽勢の挽回に努めた。直義はその間に北陸を発ち、関東を抑えるべく鎌倉に移っていた。
尊氏はこれを追って東下し、東海道各地で直義軍を撃破しつつ、12月29日尊氏軍は直義軍を足柄山に撃破し、伊豆国国府に陣取った。翌1352年(観応3年)1月5日尊氏は直義と和睦し鎌倉に入った。それから間もない2月26日は鎌倉で急死する。「太平記」には「黄疸が死因だと公表されたが、実は鴆毒で殺されたという噂がもっぱらだ」と、その間の消息を伝えている。直義が毒殺されたのは、どうやら本当であったようである。
足利直冬の奮戦
尊氏の子でありながら父に疎まれ、直義の養子となったという経歴を持つ足利直冬は、尊氏と直義が対立したいわゆる観応の擾乱が生ずると、迷うことなく養父の側についた。その為尊氏により長門探題の座を追われたが、九州に逃れて少弐頼尚を頼り、忽ち北九州一帯を抑えて九州探題を自称するほどの勢力を築き上げた。
しかしその勢力は、養父直義の死を境にして急速に衰え、やがて尊氏党の一色範氏に九州を追われることとなる。そこで直冬は中国に逃れ、長門・石見と転じながら、直義の後継者として旧直義党の面々と連絡を取りつつ、再起の機会を窺い続けることとなる。
そして結局、直冬が選び取った方策は、南朝と結ぶことであった。かって直義も尊氏もやはり南朝と結んだが、天下三分の情勢の下では、そうすることが相手を倒す最も手っ取り早い手段であった。
直冬は1352年(文和元年)暮れ南朝に帰順を申し出て許され、南朝は翌1353年(文和2年)半ば、直冬を総追捕使に任命した。
かくて直冬は1354年(文和3年)の秋、山名時氏と共に上洛の途につき、京都西方の丹波へと軍を進めた。これに応じて北陸の直冬党の桃井直常らが北方から京都に迫り、楠木正儀らの率いる南軍も南方の石清水八幡宮辺りに進出した。
直冬以下の軍が京都に乱入して、幕府軍の間に戦いの火蓋が切られたのは、1355年(文和4年)1月16日の事である。それから二ヶ月近く、京都をあらかた焼け野原と化して両軍は死闘を繰り返しが、直冬は遂に父には勝てなかった。
3月12日、直冬は京都を捨て、西に負走する。その後直冬は、石見・安芸などにおいて山名時氏と結び、しきりに昔日の勢いを回復しようと努めたが、全て無駄であった。晩年は完全に没落したらしく、これだけ有名な人でありながら没年さえ明かでない。
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