2018年10月26日金曜日

邪馬台国論の解明は?(平原遺跡、岩戸山古墳など)


魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地をめぐって、江戸時代より多くの議論がでているが、決定的な結論は不明のまま迷宮入りしている。

その理由を考えてみよう。

1)魏志倭人伝の記述が曖昧である。

壱岐国からの旅程で、地名や距離や方位の記事が曖昧で、現地の地形と対比するのが困難だ。

著者が直接旅行したのでなく、読み聞きした内容らしく、また行きと帰りの行程が変わることもあるので、余計に曖昧になったと考えられる。最初の末盧国も、松浦から宗像や遠賀川まで幅ひろく考えられる。

2)日本の文献が少ない。

記紀は数百年あとに書かれた記録で、そのなかに邪馬台国の記載がなく、類似の人名や場所も存在しない。類推の議論が主になっている。


3)考古学的な解明が不足している。

古墳や鏡や刀剣や土器や衣類や集落遺跡など多岐にわたり議論されているが、エジプト考古学のように、文字などの決定的裏付けになるものがなく、時代判定も変化が大きく、混沌としている。

4)研究者の主観がはいりやすい。

京都大学派は畿内説が多く、東京大学派・その他は九州説が多い。九州説も具体的候補地が多くまとまりにくい。

H.23のデータでは、
甘木・朝倉131;博多湾沿岸102;吉野ヶ里86;
八女市矢部村84;西都原62;宇佐56;大宰府49
などが上位である。 

時代による変遷:


1)江戸時代は、新井白石が初期に大和説を出すが、晩年に九州説に変更し、山門郡を想定。皇室に配慮して、地元豪族が朝貢したとする。本居宣長も国学的な大義名分論にもとづき、魏志倭人伝など中国の史書は非なること多しとする。

2)日露戦争後は、内藤虎次郎(京大)が、東は南のあやまりとして畿内大和説と提起し、白鳥庫吉(東大)は行程の総計12000里に着目し、九州説で肥後と想定した。


3)大正時代には、梅原末治らが考古学的遺物・遺跡から畿内説をだし、津田左右吉や和辻哲郎らは、記紀批判や民族学的に畿内説を展開した。

4)敗戦後は天皇制の解放で、邪馬台国の位置付けが自由になり、部族国家の認識が広まった。

昭和22年に榎一雄が行程が直列でなく伊都国以後は並列と解読する案をだした。考古学から小林行雄が同范鏡論で畿内説を唱えた。その後、考古学主導の畿内説と、文献解釈の九州説の対立が続いた。






5)専門家以外に、松本清張の「古代史疑」や宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」など、学界の外からの参加が多くなった。宮崎は盲目のため、音読による地名の判断を強調した。

6)昭和40年頃からの列島改造で土地開発がすすみ、各地で考古学的出土品が増えて、近畿説が強まったが、九州でも吉野ヶ里などの大型遺跡が見つかった。アマチャーの邪馬台国論参加がブームとなり、個人出版本も多くなった。

地域おこしの行事に、卑弥呼が引用されることも、増えてきた。
最近では、山田地区を邪馬台国と想定し、山田サービスエリアの近くの長田大塚古墳を卑弥呼の墓とする説が浮上している。



私の変遷:

1)学生時代

旧制中学の歴史の教師が森貞次郎先生で、自宅が近くだったので自宅に遊びに行き、考古学の面白味も教わった。(邪馬台国論の具体的な話はなかった。)

九大の鏡山教授が遠縁で、古墳調査の苦労などの話を聞いたことがあるが、当時は邪馬台国など知らなかった。

2)壮年時代

昭和40年代初期に、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」が出版され、これを森繁久弥が演劇化したのを観て興味をもった。

昭和50年代なかばに、職場の観光旅行で糸島の平原遺跡や糸島町の資料館を見学し、邪馬台国の可能性を感じた。原田大六さんの本を購入し、調べはじめた。資料館もまだプレハブの小屋で、王墓も木枠の露出じょうたいだった。







{国宝}福岡県平原方形周溝墓出土品
・銅鏡 40面分
・玉類 一括
・鉄素環頭大刀 1口
・附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

その後王墓は公園化され、九産大神田学長の書による石碑が建てられた。










この頃九州産業大学の教授になられた森貞次郎先生の「北部九州の古代文化」が出版された。伊都国で魏志倭人伝に
ふれているだけで、邪馬台国の想定はされていない。
東古墳は双円墳で、主体部は失われていたが十六人を埋めたと思われる殉死溝をとどめていたという。古代の殉葬とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬこと、殉死させたうえで葬ることを殉葬というらしい。邪馬台国の女王「卑弥呼」が死去し塚を築いた際に約100人の奴婢が殉葬されたと魏志倭人伝に掲載されているが、平原遺跡は殉死者16人では人間の数は違いすぎる。三世紀頃の遺跡で、時期は卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一緒だ。
昭和60年代になると、邪馬台国関連の本や講演会などが急増した。
古田武彦、山田宗睦、松本清張、千田稔、武光誠、安本美典、森浩一、神西秀憲、岡本健一などの本を購入し乱読した。



西日本新聞の記事



吉野ヶ里の発掘調査時代に2回現地見学にいき、公園完成後3回でかけて、視察した。



北部九州地区の古墳の見学旅行にはあちこちと参加した。

平塚川添遺跡の見学にもでかけた。

また奈良の飛鳥地区や平城京地区にも2回ほど観光視察にでかけた。


(3)高齢時代

平成になると、正規の職業を退職し、自由時間が増えたので、福岡市周辺での講演会に多数でかけた。埋蔵文化センターでのシリーズは1年間通った。
聴講した講師名は、西谷、小田、奥野、高島、生野、平野、西川、柳田、荒金、森、松木、渋谷、石合氏ら多数である。

市のネット仲間の会で、自己流の邪馬台国論を話したこともあ
る。

邪馬台国の旁国名やその人口数などの研究もすすみ、各種の統計的なデータによる議論も増えてきた。


また外交の対象国も魏国だけでなく、後漢、呉、半島の諸国との問題も論議されている。




『魏志倭人伝』には「景初二年六月、倭女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝貢せしめんことを求む。
太守劉夏、吏を遣わし、将に送りて京都(洛陽)に詣らしむ」
と記されている。

現在は高齢のため出かけることが困難で、もっぱらネット情報で学んでいる。

これだけ膨大な情報がありながら、決定的な結論が得られないでいる邪馬台国論

私個人の考えでは、九州人の我田引水が半分あるが、白鳥説が合理的で九州説に魅力がある。

「倭人伝」では、帯方郡から邪馬台国への行程を方向と距離(里)で記載して、総計すると、一万二千余里としている。不弥国までの累計が一万七百里だから、あと千三百里で邪馬台国につくから、邪馬台国は九州の範囲としたのが、白鳥庫吉の説である。
しかし本文の記載には、不弥国の後に次の文がある。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
なぜ急に距離でなく日数「水行十日陸行一月」で記載したかを解説した著書は少ない。
私の知る限りでは、古田武彦氏と生野真好氏が、距離と方向で記載するのは、場所を明記するためで、日数で記載するのは、全部に要する旅費(軍事費)を計算するためでだと書いている。松本清張は魏の使者が行った事がない場所と考えている。
これを距離に換算して加算すると、邪馬台国は沖縄のはるか南の海の中になり、誤りだ。
生野氏は 水行十日陸行一月は、女王国から洛陽までの日数だとし、古田氏は朝鮮半島を陸行した場合を加算しているという。私は帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里の日数と思っていた。最近では、奥野正雄氏が私と同じ考えで、吉野ケ里を邪馬台国とする著書を出された。
文章の流れからいうと、すこし飛躍があるが、論理的には正しいような気がする。九州説の論者はよく研究してみる必要がある。

世界的にみて古代文明は大河の沿岸から始まるので、九州説では筑後川沿岸が最有力だと思う。


前述のように甘木・朝倉を比定する人が多いが、エジプトでの発掘調査をみていると、遺跡の下から古い遺跡が見つかることも多いので、古代豪族磐井氏の祖先がいた地区で、八女市や矢部村周辺、岩戸山古墳周辺の下に埋もれているのではないかと思っているが、確証はない。



九州古代史研究会で議論されている、筑紫王と豊前王の分類にも興味があるが、2~3世紀では区分がはっきり無かったと思える。

残る手段は、金印の発掘があるか、AIにデーター入力して判断してもらうかが解決策であろう。




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