わが郷土で生まれた景轍玄蘇和尚は、秀吉、家康の時代
に対馬藩の外交僧として、日韓外交に大活躍をした人物であるが、のちに活躍するの雨森芳州ほど知られていない。
玄蘇の生まれは古賀市と福津市の境付近にある飯盛山や亀山城の城主河津家である。父と兄は宗像氏貞について忠節をつくした有名な武将である。
兄は、宗像氏貞が立花道雪にやぶれて、色姫を人質に出したとき、道雪の命令で暗殺されている。
当時の宗像VS立花の戦は、大友氏と大内氏の対立戦線であった。
宗像氏貞も若くして病死し、上八の承福寺の麓の山に眠っている。
河津一族の九州での本拠地は福津市の亀山城(現在の亀山神社)であったといわれる。
その祖先は伊豆の伊東、河津兄弟は、あたりの豪族であった。
その代表は伊東祐親で、源頼朝が最初にその娘(八重)に近寄ったことで知られている。
祐親は出来た子供を殺し、娘を別の豪族に嫁がせた。
祐親は出来た子供を殺し、娘を別の豪族に嫁がせた。
八重姫は、入水自殺をしたとつたえられている。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿と13人」でも、最後は川で流されて死亡した。
伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・伊東祐家が早世すると、祖父・祐隆(法名・寂心)は後妻の連れ子である継娘が産んだ子(その実父は祐隆本人ともされる)である伊東祐継を養子とし、嫡男として本領の伊東荘を与え、同じく養子にした孫の祐親には次男として河津荘を与えた。
嫡孫として約束されたはずだった総領の地位を奪われたことに不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・祐経が上京している間に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。
これを深く恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、郎党に命じて狩りの場にいた祐親を襲撃させる。刺客の放った矢は祐親を外れたが、共にいた嫡男・河津祐泰は射殺され、これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。
曽我は母の再婚先の姓で、河津が本来の姓であった。
祐親は、頼朝が政子に鞍替えして兵を挙げて勝利したのちは自決に追い込まれた。
伊東の弟で河津にいた河津家が、頼朝の時代に山口や九州に派遣された。
さらに京都にでて修行を積み、ついに博多の聖福寺の住職となる。聖福寺には、景轍和尚の遺品や文書が多く残されている。
太宰府の九州歴史博物館のオープン展示の時「仙巣稿」(景徹玄蘇撰;規伯玄方編3冊)が展示された。
その後海外との人脈やすぐれた博識をかわれて対馬藩に抱えられ、当時朝鮮半島との外交の窓口であった対馬藩の外交僧となる。
最初の交渉は、秀吉の朝鮮出兵計画を中止させようと、小西行長らと事前工作をするがうまくいかず苦労する。秀吉の死後、家康の時代となり、戦後処理の交渉を引き受け、朝鮮通信使の外交を成功させ、家康からは最高位の紫衣を授与された。
対馬の厳原にある西山寺にその墓がある。
上八村の清水家の子が、玄蘇和尚の弟子となり、玄芳和尚として対馬の以酊庵の第二世となって活躍していた。
河津一族の菩提寺は福間の正蓮寺である。
その近くには写真のような子孫の邸宅もある。
最近、吉住市議が、子孫の邸宅を訪問された資料を転載している。日清・日露戦で活躍した陸軍少将も河津家からでているようだ。
また家臣の井浦家、深津家の屋敷跡も存在し、歴史散歩コースになっている.
先日、宗像の上八にある承福寺をひさしぶりに訪ねた。
門前の階段や楼門まわりが綺麗になり、新しい 黒田文書の説明石碑が据え付けられていた。
埜村和尚さんは、鐘崎の魚まつりやさつき海岸の清掃 作業の行事にでかけられて、留守であった。
地元の行事にひっぱりだこで忙しいらしい。
埜村和尚が最近出版された「やすらぎの禅語」の本を買って かえった。
日頃の活動は下記のブログで紹介されている。
http://www.jyofukuji.com/
http://www.jyofukuji.com/
河津俊夫さんは、承福寺で、当時の歴史講座をひらかれている。河津氏が保有される代々からの河津家ルーツ史料に裏付けられた、日本歴史学会の通説を覆すような解説は、聴衆を魅了したようだ。
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