2024年12月25日水曜日

地震予知に挑んだ今村明恒の思い


今村は、 1870年、現在の鹿児島県鹿児島市薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。

鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。

彼は震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録(歴史地震)から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想。1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した。

この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された。

しかし1923年(大正12年)9月1日に関東大震災関東地震)が発生し、明恒の警告が現実のものとなり、その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。



1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。

1925年に北但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。

1931年に東大を定年退官したが、その後も私財を投じて地震の研究を続けた。

その後、今村の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。

1944年12月7日に前述の東南海地震が発生した際には、陸地測量部が掛川-御前崎の水準測量を行っていた。この測量は今村の強い働きかけによるものであった。この測量の時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。

しかし東南海地震は戦時中のため、報道が禁止され、国民は知らないままであった。

東南海地震は地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。

戦時中自費でつくった計測所を軍部に接収されたため、戦後GHQに戦争協力者とみられ、公職追放の処分をうける不運もあった。



今村は、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。それが実現した後、1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、その教え方についても詳しく指導している。

1948年元日に逝去。78歳で、墓所は多磨霊園。不遇のまま人生を終えた地震学者であった。

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