1)出生
父母の結婚5年後に生まれた。そのため特攻兵士の適齢期に遅れたことになる。
2)生家の環境
海岸に近い別荘地で、九大に近く、教授陣の自宅が多く、その子弟と友人になれた。
3)男子師範付属小に転校
母方の伯父の友人が付属小の教諭で、その存在を知り転校試験をすすめられた。小4年で転校試験をうけ合格した。九大教授の子弟が大勢いて、研究的雰囲気が強かった。
4)進路目標を向上
担当教諭から師範学校よりも、普通の県立中学校をすすめられ、旧制福岡中学に入学した。
戦争拡大により、陸士、海兵が増員され、担当教諭から海兵を勧められたが、父の意見で、長男の一人子のため、4年で高等学校を受験し、不合格の時は5年で海兵受験することになった。
日獨伊三国同盟時代なので、4年で理乙を志望し合格した。
5)東大を受験せず
大学受験の昭和20年1月は戦争末期で、入学試験もできず、学校の成績順位でクラス3番以内なら東大受験も可能だったが、東京に親類もなく、戦災と食料難の時代なので、地元の九大を選んだ。
6)安川電機に就職
敗戦後の就職難で、電気メーカーからの求人はゼロの状態。電力会社は日本發送電時代で、九電のない時代。少し炭鉱景気が起こり、安川電機のみ求人依頼がきた。
大学の特別研究員(今の大学院の前身)も考えたが、当時の大学での研究は研究費や設備も貧弱で、魅力がなく、安川電機を志望し、合格できた。
7)技術部に配属
研究所を志望したが、技術部に配属され、回転機設計を数年体験した。小型サーボモーターの現場の問題点や製品の製造工程を熟知した。
9) 研究所に配属
直接研究所に配属されたメンバーは、当時の所長のワンマンぶりに疲弊して、工場への配置転換を選んだ。その反対に、研究所希望の私は、電動機の基本特性研究をテーマに配属になった。
10)コンピューター導入と利用
民間の大手電気メーカーは、米国のIBM計算機を導入し、社内のソロバンで行われていた事務用計算(経理や給与など)の合理化をはじめた。安川電機もその仲間であった。
技術研究用の計算は、まだ計算尺や手廻し計算機の時代であった。
私は自分の研究テーマの技術計算を、日本IBMの技術者に相談したら安いサービス単価で引き受けてくれた。
計算結果は、私の実験結果とよく一致しており、この内容を電気学会誌に投稿した。
当時大学ではIBMの計算機など皆無だったので、成果は高く評価された。
その結果を学位論文として、九州大学に提出し、学位を取得できた。
当時同じテーマを研究されていた京都大のW助教授は、メーカーの研究に太刀打ち出来ないと諦めて退職されて、県の工業研究所に移られた。
11)新研究所の設立
戦後成長期で、中央研究所設立ブームとなり、安川電機も新研究所を設立した。
材料、電力、制御、機械、物性などの部門が設けられ、電力部門のリーダーとなる。
電動機、開閉器、遮断機、半導体機器、振動機械、関連計測器などのテーマをっ取り扱う。
サーボモータ、振動モータ、SF6遮断機、電力用SCR, 電解コンデンサー、大振幅計測器などの開発や事業化を推進する。
0 件のコメント:
コメントを投稿