2023年3月20日月曜日
佐賀平野は水の力(その2)科学技術の成長
2023年3月17日金曜日
東北地方の名称
この地方の名称は、歴史的に変遷している。
まず、古代には、畿内から始まる海道(後の東海道)と山道(後の東山道)の各々の道の奥にあることから「みちのおく」「みちのく」とされ、当地方南部(南東北)に「道奥国」(みちのおくのくに)が設置された。
後に陸奥国と出羽国が設置されると、両者から1字ずつ取った「奥羽」「奥羽両国」「奥羽州」と呼ばれた。また、両者を一括して実効支配を敷いた奥州藤原氏や奥州探題などの例から、単に 「奥州」ともといわれた。
「東北」と称する文献例は、主に江戸時代・天保期以降の幕末になってから散見されるようになり、この場合、「東北国」と称する例もある。
地方名としての「東北」の称が公的な史料で初見されるのは、慶応4年(1868年)に佐竹義堯(秋田藩主)に下賜された内勅とされる。ただし、この場合の「東北」は五畿七道の内の「東北3道」(東海道・東山道・北陸道)、すなわち、天皇の在所である畿内からみて東あるいは北東側にある全ての地域を指しており、西南4道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)と対比される。
または、東国と北陸の合成語とも考えられる。なお、奥羽および現在の東北地方は「東山道の北部」に位置している。
明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)、奥羽越列藩同盟諸藩に対する戊辰戦争の戦後処理の一環として、陸奥国が5分割(磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥)、出羽国が2分割(羽前・羽後)されると、「陸羽」または「三陸両羽」との呼称が生まれた。
この場合、現在の福島県全域と宮城県南端に相当する磐城・岩代の2国を除いた、残りの「陸」と「羽」が付く5国の地域を指し、「奥羽」とは指し示す領域が異なっているが、分割前の「陸奥国」と「出羽国」と見ることもできるため、混同されて使用される例も見られる。
明治前半に奥羽両国は、明治元年成立の旧国の数から「奥羽7州」「東北7州」、あるいは、新設の県の数から「東北6県」とも言われるようになる。
廃藩置県が実施されて全国が政府直轄となると、当地方から北海道が切り離され、仙台県宮城郡仙台(後の宮城県仙台市)に国家の出先機関などが置かれていった。
これらの管轄範囲が公的には「奥羽」と呼ばれる一方、在野の民権派は「奥羽」「奥羽越」あるいは「奥羽および北海道」の範囲を指す美称として「東北」を(「西南」と対比して)用いるようになった。
明治の後半になると民間でも「奥羽」の範囲を「東北」と呼ぶのが通例となり、公的にも「東北」が用いられるようになった。
結果、「東北」は日本の地域の中で唯一、民間由来の地方名として定着し、明治以降135年以上に渡って、東北地方の主要企業・国家の出先機関・大学などの名称に多く用いられてきた。
そのため、現在は雅称の「奥羽」よりも美称の「東北」の方が当地方の呼称として一般的である。
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。
統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。
しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。
「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。
蝦夷に統一なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
東北地方
奥羽地方
丑寅日本
鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位・方角のこと。日本では古来より鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされる。
未知の奥
道の奥
奥の細道
2023年3月11日土曜日
頸動脈と心臓の脈拍と腎臓の関係
3月7日の口腔機能のリハビリ運動中に失神していた。首の筋肉を強化するため、左右に首を動かしながら呼吸を吐き出すことを繰り返していた時であった。
若いころ柔道で首を絞められ、失神した時と同じような感覚であった。
頸動脈の血管が硬化しているといわれていたが、脈拍が低下していたことも、これを促進したかもしれない。失神当時は脈拍が40代に下がっていたようだ。
これを頸動脈洞失神というらしい。
圧受容体が存在する頸動脈洞が刺激・圧迫され,迷走神経の過剰な反応により,循環障害から失神などをきたす症候群をいう。
循環障害のタイプから3つに分けられ,3秒以上の心停止を生じるものを心抑制型,収縮期血圧が50 mmHg以上低下するものを血圧低下型,両者を生じるものを混合型と称する。血圧と脈拍も関係する。
脈拍の正常基準値は、下記のとおりである。
新生児は120~140回/分、
乳児期は100~120回/分、
学童期は80~100回/分、
成人は60~100回/分、
高齢者は50~70回/分。
今回の入院で、薬の種類の変更により、50だった脈拍が70に上昇した。この状態で安定してくれたら有難い。一時的には80になったときは、少し息苦しかった。
心臓の機能と腎臓の機能は深い関係があるそうだ。
脈拍をおさえる薬を常用していたので、高齢化とともに脈が下がりすぎて、最近腎臓の機能低下を起こしていたのかもしれない。
今回の脈拍の増加で、腎臓の数値も少し改善される可能性があるようだ。
3月23日の血液検査に期待しよう。
佐賀平野は水の力(その1)平野の成り立ち
現在の大宰府天満宮(福岡県太宰府市)周辺の海抜は 40メートル近くです。
上図は海面が現在より 30メートル高いと想定した九州北部の地図です( 原地図出典 http://flood.firetree.net/ )。
縄文時代の満潮で高潮の時には「針摺の瀬戸」( 地図のマル印で、博多湾と有明海をつなぐ海峡)が現れた可能性があります。
現在の筑紫平野、佐賀平野は海抜の変化や、河川が運んだ泥や潮の干満の差よる有明海の泥のが逆流による堆積で陸地化された平野であり、「針摺の瀬戸」はなくなりました。
この地区の支配者たちは、この平坦な地形の中に堀をつくり、その土で小さな城をつくりました。
50もの小さな城ができて、そのリーダーとなった龍造寺が勢力を広げ、北部九州の五州と二島を制圧するまでになりました。
その2に続く。
2023年3月2日木曜日
私のライフサイクル論
ボルネオの落下傘部隊の輸送隊長だった叔父が、その後シンガポール輸送部隊の戦で戦死した。
2023年2月24日金曜日
大河内家
(財)福岡県メディカルセンター 保健医療福祉研究機構 研究員
九州大学医学部付属病院、医療情報部教授大河内 二郎
2023年2月23日木曜日
堀内 豊秋 日本初の落下傘作戦
堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 - 1948年〈昭和23年〉9月25日)は、日本の海軍軍人、体操研究者。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。海兵50期。
太平洋戦争開戦直前に横須賀鎮守府附第1特別陸戦隊司令に就任。日本初の落下傘部隊として、1942年(昭和17年)の1月11日にはオランダの統治下にあったインドネシアのメナドへの奇襲降下作戦(334名)を指揮し成功を収めた。これが日本初の落下傘降下作戦である。
この際、鎖で足を繋がれて逃げられない状態で闘ったインドネシア人兵士がメナドの6基のトーチカを守っていたが、それを命じたオランダ陸軍歩兵大佐F・W・M・ティウオン(F・W・M・Tiwom)は、この日本軍の落下傘降下作戦の際に逃げた先のメナドの飛行場で命乞いをして捕虜となっている。
当時オランダの支配は過酷で、水田を潰し輸出用のタバコをインドネシア人に作らせていた。また水田を潰したことにより大量の餓死者をインドネシア人は出していた。その事と、メナドには地元住民の間に、「国家国民が危機に陥らんとした時に北方の空より翼が生えた白馬に跨った獅子達が救援に舞い降りてくる」とのジョヨボヨ伝承が相まって、堀内達の落下傘部隊は絶賛して迎え受けられる結果となった。
この伝説と落下傘部隊の行動は、後に海軍省製作の国策アニメ、『桃太郎 海の神兵』でも描かれた。
このあと堀内は3ヶ月間ここにとどまり、現地人兵士を故郷に帰し、オランダが課した塩税を廃止し、逆に塩の作り方も教えた。また家ごとに救急箱も配った。堀内とその部隊がバリ島に移動するとき、落下傘降下地区のカラビアンとラングアン地区の住民数百人が、別れを惜しみ60キロの道を歩いて、メナドまで堀内の部隊を見送りに行った。
戦後、堀内の部下がオランダ当局からBC級戦犯として裁判にかけられることになったが、堀内は元部下の潔白を証明すべく行動した際に、オランダ当局から巣鴨刑務所に勾留されてしまう。そして、堀内は翌1948年(昭和23年)1月にオランダ人虐待と村民に毒を盛って30人を殺害した罪で起訴され、メナドに送致された。
堀内の部下の裁判も、堀内が起訴された裁判も、日本軍に降伏して捕虜となった元オランダ軍のティウオン大佐によるものであった。彼は戦後、捕虜収容所から出るとセレベス島BC級戦犯を裁く裁判長を買って出、ティウオンの部下を検事役にし堀内の部下であった旧日本軍兵士12人に死刑を宣告した。堀内はその罪の潔白を証明する証言者であったが、堀内自身も勾留され、1年後に前述の罪で起訴され裁判にかけられた。
ティウオンが裁判長となった堀内の裁判は、戦中に堀内の部隊が村民に配布した薬箱が毒薬配布に仕立てられた事がのちに分かるが、それ以外の証拠がないままオランダ人9人の一方的な証言だけで死刑が求刑された。その際、堀内の弁護人の井出諦一郎が証拠の無い一方的な証言だけの裁判に対してその意義を問うと、裁判長のティウオンの職権で、判決を前に井出はメナドから強制退去させられた。また地元住民からも堀内の身の潔白を訴える嘆願書が出されていた。
同年5月、ティウオンは堀内に死刑判決を下し、同年9月25日、堀内はメナドにて銃殺刑に処された。戦犯裁判に関してはその潔さに心打たれたオランダ当局は堀内を海軍大佐としてオランダ軍の儀仗隊付での葬列を遇したとの逸話もある[4]。
処刑から5年後の1953年(昭和28年)4月29日、戦争犯罪人指定解除を受ける。墓所は熊本県熊本市浄行寺。靖国神社に祀られている。
私の叔父狩野毎はこの日本初落下傘部隊の輸送機隊長として働いたが、その後の輸送機活動中に戦死した。





















