2023年3月2日木曜日

私のライフサイクル論

森岡清志教授のライフサイクル論にしたがって、私のライフサイクルをまとめてみた。


私は1926年5月9日生まれなので、ライフサイクル論の出生コーホートは、C2である。

5.15事件や、2.26事件のかすかな記憶もある。日中戦争では南京陥落の提灯行列参加の記憶が強く残っている。小学生までは戦が勝の喜びが優先していた。箱崎宮の海が岸では、海軍記念日に花火大会がおこなわれた。付属小学校では先輩の中野正剛が講演にきて、日本の発展を願う話をした。

戦争体験の内容は後述する。

戦後の教育改革の影響は全くうけていない。

朝鮮戦争の影響で、就職していた北九州の企業では、朝鮮に近いことから特需があった。
その製品のテスト方法の米軍規定が、業界の標準規定と異なるため、GHQとの交渉を担当した。米軍の担当者が学生時代のノートを基準にした幼稚なものだったので、業界のデーターを示して、変更してもらった。





日米開戦は中学3年生で、もう不安のほうが強かった。軍事教練が強化されていた。
旧制高校では学徒動員で、夏休みもなく、3年の制度が2年に短縮された。ボルネオの落下傘部隊の輸送隊長だった叔父が、その後シンガポール輸送部隊の戦で戦死した。

兵役体験では、徴兵検査はうけて乙種合格となったが、兵役は理系学生のため延期されて大学入学を許された。しかし部活運動のなかで、西戸埼の海軍部隊に半年ほど通い、カッター漕ぎや内火艇操縦の訓練をうけた。
学徒動員では、佐世保海軍基地の弾薬庫工事や三菱化成工場のプラスチックガラス工場での作業に動員された。

大学では、百武元海軍大将が総長となり、海兵式敬礼を要求し、3年を2年間に短縮するという計画で、休日なしで授業が開始された。

沖縄陥落、福岡大空襲と続き、自宅も少し被害をうけた。その後、広島、長崎原爆とつづき、ついに無条件降伏の敗戦となる。
小倉から長崎に移動した原爆のB29が福岡上空を通過する時も、空襲警報は出ていたが講義は、継続されていた。
直前に、長崎原爆で落とされたら落下傘爆弾(ラジオゾンデ)を大学で分解調査する作業に参加したのが、貴重な体験であった。

敗戦直後、西部軍の貯蔵食糧を市民に分配する夜間作業にも動員され、徹夜作業をした。

敗戦後千早にできた米軍キャンプ基地の作業員に、地元隣組から動員されて2ヶ月ほど働いた。少し英語が話せることから、PXでの食品の整理作業であったから比較的楽な仕事で、米語の勉強にもなった。




敗戦後の就職難は深刻であったが、石炭産業の復活から始まったブームで、電機メーカーに就職できた。

家族のステージ分類9段階では、現在は8ステージであるが、退職は2回の転職を経て、75歳であった。

1)新婚期は29歳、2)育児期は37歳、3)第1教育期は43歳、4)第2教育期は49歳、5)第1排出期は52歳、6)第2排出期は65歳、7)向老期は75歳(退職)
8)退隠期は75歳から現在まで。95歳まで、車を運転し、ゴルフをプレイしていたが、96歳で卒業して、介護付き老人ホームに入居している。
あとは弧老期を待つのみである。長寿社会をいきている。

家内はC3の出生コーホートであるから、教育制度の変更などで考え方などの変化が大きく、意見の食い違うことが多い。


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