2023年3月11日土曜日

佐賀平野は水の力(その1)平野の成り立ち


 

 現在の大宰府天満宮(福岡県太宰府市)周辺の海抜は 40メートル近くです。

上図は海面が現在より 30メートル高いと想定した九州北部の地図です( 原地図出典 http://flood.firetree.net/ )。

縄文時代の満潮で高潮の時には「針摺の瀬戸」( 地図のマル印で、博多湾と有明海をつなぐ海峡)が現れた可能性があります。


現在の筑紫平野、佐賀平野は海抜の変化や、河川が運んだ泥や潮の干満の差よる有明海の泥のが逆流による堆積で陸地化された平野であり、
「針摺の瀬戸」はなくなりました。


海底の泥の逆流を防ぐため佐賀藩は搦方を置いて干潟(ひがた)の干拓政策を推進しました。宝永(ほうrえい)搦などがあり、また明治以後の大正搦などもあります。
搦の名の由来は、潮止めの築堤にあたってまず松丸太の杭(くい)をある間隔で打ち、それに竹などを「カラミ」つけて柵をつくり、堤防(土居)の芯(しん)にしたことに起因するといわれています。搦名は干拓主体名の伝兵衛搦・授産社搦、守護神名の竜神(りゅうじん)搦・弁天搦、佳名の万歳搦・大福搦など多様です。


佐賀平野は有明海の干潟として広がったが、そこに計画的に水路が精密につくられて、広大な穀倉地帯ができました。

この地区の支配者たちは、この平坦な地形の中に堀をつくり、その土で小さな城をつくりました。

50もの小さな城ができて、そのリーダーとなった龍造寺が勢力を広げ、北部九州の五州と二島を制圧するまでになりました。



その2に続く。


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