今日8月22日は瀬戸内海の村上水軍の頭領・村上武吉が周防屋代島で没した日。享年72歳。
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能島周辺の地図 |
天文二年(1533)の生まれで、能島村上氏四代当主の義雅が若くして没すと家督相続争いが起こり、武吉は敗れて一時肥後の菊池武俊のもとへ逃れ、肥後で元服、「武吉」の諱は菊池武俊の一字を拝領したものと伝えられている。
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村上武吉 |
その後武吉の後見人である叔父・左近大夫宗勝(隆重)の活躍で、迎えられて能島村上氏五代当主となる。
弘治元年(1555)十月の厳島合戦は、大内義隆を滅ぼした陶晴賢と毛利元就の間で行われた戦いだがが、毛利方に加担した武吉は毛利水軍と行動を共にし、毛利勢が大勝した。こうして武吉は親毛利氏の立場を取ることになる。
その後、武吉は小早川隆景に従って筑前名島城(福岡市東区)へと移り、朝鮮出兵の際にも一緒に活躍する。
しかし瀬戸内の通行税(帆別銭)を徴収し続けていた武吉は秀吉に瀬戸内海を追われて、長門大津郡への移住を命ぜられる。
武吉が瀬戸内海に戻れたのは秀吉の没後で、安芸竹原の鎮海山城に長男の元吉とともに住むが、関ヶ原の戦いの際に西軍に付いた元吉は、伊予松前(まさき)城(愛媛県松前町)の加藤嘉明を攻めた際、古三津刈屋口の戦いで戦死してしまう。
落胆した武吉は翌年元旦に二男の景親を頼って孫の元武とともに周防屋代島(山口県周防大島町)へと移り、この日同地で没した。
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屋代島の地図 |
九州とも縁の深い人物だった。
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村上水軍博物館 |
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